浪曲式活動弁士・吉田奈良勝

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浪曲式活動弁士・吉田奈良勝

 人 物

 吉田よしだ 奈良勝ならかつ
 ・本 名 岡本 甚造
 ・生没年 1878年6月21日~??
 ・出身地 関西?

 来 歴

 吉田奈良勝は戦前活躍した浪曲師。二代目吉田奈良丸の門下生であったが、浪曲よりも活動写真に活路を見出し、浪曲入りの活弁や映画館での余興で人気を集めたという稀有な存在であった。

 詳しい経歴は不明であるが、生年月日は『芸人名簿』より割り出した。

 正岡容『雲右衛門以後』によると、元々は木綿屋だったというが、浪曲師に転向。二代目奈良丸が全国区の人気を得る前からの弟子だったらしく、古参弟子の一人だったようである。

 浪曲としては吉田奈良丸譲りの「忠臣蔵」を読んだというが、他の門弟に比べると些か劣る所があったらしく、そこまでの出世はできなかった模様。

 それでも一門の兄貴分としての役割があったのか、1913年5月23日より、吉田一若が京都南座で浪花節リサイタルを実施した際、モタレとして一若を助けている。

 また、師匠奈良丸に芸風が少し似ていた事もあり、奈良丸の出る映画の声優の吹き替えとして出演したことがある。ただ、これは後々露見して、「声を売り物にする浪花節が替え玉を使うとは何だ」と結構な問題があったらしい。

 倉田喜弘『日本レコード文化史』の中に、

 日蓄以外で顕著な動きを見ると、弥満登音影株式会社の設立がある。日活のトラストに反対する三宅豹三らが実業界や松竹と手を結び、大正二年(一九一三)に活動写真とレコードの会社を興した。八月には銀座の東京日日新聞社跡に吹込所を作り、吉田奈良丸との契約も済ませる。そして九月十九日から浅草の帝国館で「神崎与五郎東下り」を上映したが、映像は奈良丸であっても音声は弟子の奈良勝に吹き替えたため、会社は信用を落として以後は話題になることがなかった。

 ただ、朝鮮半島など浪曲が余り届かない地では結構人気があったという。

 その後は、浅草の映画館の実演で活躍。『キネマレコード』(1915年4月号)の「浅草公園六区一巡り」の中に

「これと同時に又余興が盛んになって来た。常磐座の水野一派を筆頭にパテー館の山口一派、みくに座の中野一派、電気館の吉田奈良勝、千代田館の京山小えん、富士館の曲芸、三友館のマックス一派、オペラ館の女優所作、東京館の都桜水一派、遊楽館の東家小楽燕等……」

 とあるのが確認できる。

 1920年代前半まで活躍が確認できるが、詳細は不明。よくわからない人材である。

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