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京山の大幹部・京山円吉
人 物
京山 円吉
・本 名 小池 徳松
・生没年 1886年11月19日~1965年以降
・出身地 大阪 稗島
来 歴
京山円吉は戦前戦後活躍した浪曲師。幼くして京山小円の門下に入り、「円吉」と名乗る。初期レコード吹込みで活躍するなど期待の星として謳われたが、中年でリタイヤし、興行師に転向。北海道の興行を一手に担う程の大興行師と知られ、長命を保ったという。
経歴は1915年刊行の『浪花節名鑑』に詳しい。
氏は明治十九年十一月十九日浪花の城西淀川の辺り稗島の里に生る。十三歳にして浪界の泰斗京山小圓師の門に入り十一ケ年間一日の如く師の元に勉励なし。其間二ケ年間国家干城たる軍人となり後明治四十三年統率なし。各地劇場興行を専門となし明治四十四年十一月帝都新富座に旗上げ成功なし関西の盛花と謡はるるに至り其後今日に至る永き間北海道其他各地にて好評を博しつつありて蓄音機吹込等澤山あり。
因みに実家は青物屋だった――と『雲右衛門以後』にある。
小円の秘蔵弟子として様々な芸の手ほどきを受けた。成人後、二年間ほど徴兵に遭遇して兵隊生活を送っている。
1910年に独立後、京山派を代表する新鋭として活躍。『義経記』『静御前』『佐倉義民伝』『義士伝』といった師匠譲りの芸を得意とした。
男ぶりも良く、声も美しかった所から女性の贔屓も多かった。一方でどことなく冷たくヤマのない芸風が欠点であったそうで、梅中軒鶯童『浪曲旅芸人』を見ると、
当時関西では菊春・円吉・菊水を三人男と称して美男子の標本だった。その二人の合同だから聴衆は連日連夜大入だった。菊春師にもそのきらいがあったが、円吉師も同型で、芸も声も美しく舞台も美しいが、男振りを見せようという気持ちが手伝うのか、全体にヤマのない、描写の拙い浪花節だと思った。
とある。
1911年11月17日から10日間、桃中軒小雲と手を組んで新富座で二人会を開催。さらに27日から3日間、牛込高等演芸場でも公演を実施している。
当日は樺山資紀からテーブルかけを贈られたという。
11月18日の『都新聞』に芸評が出ているので引用しよう。
◇昨夜から新富座に出演してゐる桃中軒小雲と京山圓吉との試演を十五日の晩に聴いた。小雲は早稲田の出身で、雲入道の高弟だといふだけに、能く雲の節を真似てゐるが、未だ年が若いだけに雲の如く落着きがないのは仕方がないとして、少し騒々しい嫌いがある。圓吉は小圓の養子だといふが、読方は奈良丸と小圓の間を行くといふのだから悪くはないが、是も亦年若なのでキズが無いとは云へぬ。兎に角、若手揃ひで車輪なれば一度聴いておくもよからう。
しばらく小雲と手を組んで東京市内の寄席や劇場、更には巡業に出掛け「雲節」と「小圓節」の競合を見せるのを売りにしていた。
1912年、レコード会社のライロホンの吹込みがはじまった際、浪花節の代表として選ばれ「花尽し」「静御前」などを吹き込んでいる。
その内の一枚、「範頼公鎌倉参詣」は日文研で聞く事が出来る。ほんのサワリであるが、小円節を上手く取り入れた美声を聞かせている。
1914年、知人の紹介で和田房野という少女が入門。しばらく一座で使っていたが素晴らしい才能がある事を見抜き、師匠の小円の元に送った。
この娘は後に「京山小円嬢」と名乗り、関西を代表する女流浪曲師として一世を風靡した。
その後も関西と関東の巡業を繰り広げる忙しい日々を過ごした。
1917年の東西番付では前頭7枚目。東家楽雁、宮川松安よりも上だったというのだからすごい人気である。
1928年の番付では「準元老」として登録されている。これ以降出て来なくなるので事実上の廃業とみていいだろう。
どういうわけか知らないが、やたら北海道で人気が高く、北海道に太い贔屓を持っていた。そうした事情もあったのか、昭和に入り浪曲界をやめ、興行師に転身。北海道に移住して「小池興行部」なる事務所を設立した。
浪曲や演芸の斡旋を一手に行い、自身のパイプをふんだんに生かして一躍地元の名士となった。鶯童にいわせると「一時北海道で飛ぶ鳥も落す勢力」。
順調な経営を続け安楽な中年~老年を過ごす事が出来たという。興行師として成功したのは幸せな事であった。
戦時中、日の本さくらを発掘し、彼女の売り出しに尽力を注いでいる。
戦後は北海道の事業をたたんで、大阪に帰った。天下茶屋に寓居を求め、静かに余生を送っていたという。
浪曲旅芸人が刊行された1965年時点ではまだ生きていたらしく「現在は天下茶屋で老後を過していられる」とコメントが書かれている。
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