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落語・印鑑証明
電子署名や電子証明書が盛んな今日では印鑑証明というものは影が薄くなってしまったが、そうしたものがある前は、印鑑は自己を証明する貴重なものとして大切に扱われてきた。
1952年までは、証明書と申請書がなければ印鑑証明をもらえなかった。そんな頃のお話しである。
ある間抜けな亭主、妻の代わりに区役所へ印鑑証明を取りに来た。区役所へ行き、「印鑑証明をください」というと、「18番で待ってください」。
「はあ、オハコですか」
「十八番とは何です?」
「今、18番って言ったから」
「そうじゃありません、18番の札が出ている受付でやるという事です。」
18番の受付に行った男、印鑑証明を頼むがここでもトンチンカンさを発揮する。
「印鑑証明を一人前」
「一人前? 一通ですか?」
「一枚、一番いいのをください」
「いいも悪いもありません。同じですよ。あなた、印鑑証明を知らないんですか」
「そういわれると面目ねえんですが、私の家内がしょっちゅう世話になっておりましてねえ。もと私の女房は、棟梁のとこで女中をしてまして、その頃は私は内弟子だったんですが……」
一方的に妻とのなれそめから「この度友達が家を借りるんでその保証人になって欲しいと言われたので、印鑑証明を取りに来た」という事までを一気呵成に話す。
役人は「長かった……」とボヤくが、印鑑証明の用途が判り、「では証明書と申請書をお書きください」
「お書きくださいって誰が」
「誰ってあなたですよ」
「困りましたねえ。私は字が書けないんです」
「じゃあ、10番の庶務を頼んで、代筆してもらいましょう」
「10番だの6番だの言わずに書いて下さいよ」
「仕方ないですねえ……まずご住所は」
「二階が四畳半と三畳、一階が六畳二間です」
「間取りじゃありませんよ。住んでいる所ですよ」
「ああ、鶴亀朝の十八番地」
「それは本籍ですか、寄留ですか」
「好きなようにやって下さい」
「それじゃ困りますよ。寄留ですか?」
「そうです。群馬県ですから」
「群馬県へ寄留しているんですか?」
「イヤ桐生市で生まれたんです」
「桐生市が本籍という事ですね」
「そうです」
「じゃあ、本籍が群馬県桐生市で、鶴亀町が寄留ですね」
「アナタしっかりしてくださいよ。キリュウといえば群馬ですよ。東京都にきりゅうはありません」
トンチンカンな男に四苦八苦しながらもなんとか書き上げ、書類の返答を待っていると、入れ代わり立ち代わり、女性の客がやってくる。
「どうなさいました」
「あのお願いに参りまして……区役所では税金を納めるだけで、子供が生まれては御厄介になり、消毒するといっては御厄介になり、注射だ検診だと御厄介になり、その上で御厄介になるのは恐縮ですが、印鑑証明を頂きたい次第です」
今度の夫人は打って変わって慇懃すぎるもの。役人は呆れながら応対をする。
「鈴木さん……これはあなたの御亭主ですか?」
「あら、これは隣人のものです」
「隣人? 隣人ならそちらの御亭主に来ていただかないと」
「でも、鈴木さん病気ですの」
「なら、奥様か何かが……」
「奥様もご病気で……」
「そりゃお気の毒ですなあ」
そういうと、夫人は「鈴木さんはいい人なのに夫婦そろって患ってしまい、可哀想です。ずっと寝込んでいて、やれ病院だ、鍼だ、温泉だとうまくいかず、易者に見て貰って方角が悪いんじゃないかと案じる始末で、本当に可哀想だわ」
と、さめざめと泣きだしてしまう。
すると、その女性の後ろにまた別の客が待っている。今度は田舎弁丸出しの客である。
「印鑑証明を願います。全部代書で書いてもらいましただ」
それを見ると山のような書類である。
「あの家屋証明はいくつで出します」
「十六番」
「では所在証明は?」
「十九番」
「死亡証明は?」
「あの……印鑑証明、所在証明、家屋証明、死亡証明ってそんなに証明が必要なんですか」
「ええ、倅が奉公してましてネ、証明さえできりゃ一人前だと」
「区役所の証明書で資格がつくというのも変ですね」
「はあ電気屋に勤めてましてね。」
「それは大変な違いですよ。息子さんの云うのは照明学です。舞台照明、室内照明……」
「なんだね、照明学いうのは?」
「早く言えば明るくする学問ですよ」
「なんだって、あかるくしべえだって、まあ小学校卒業しただけで生意気な事べえぬかしやがって、早速手紙を出して叱りつけますだ。生意気な学問してねえで、早く寝ちまえ、と」
「ただ、寝ているだけで明るくなりますか」「なるさあ、夜明けを待つのが一番早かんべ」
『落語名作全集五』より
新作落語の巨匠・古今亭今輔が自作自演で演じた落語。「代書屋」のような趣のある話である。1935年、今輔が倉庫番の勤務をしながら練り上げた苦心談的な噺であるという。
戦前、今輔は不景気と家族を養うために落語稼業の傍ら、昼間は上野倉庫に勤務をし、倉庫番として働いていた。
その時、何度も印鑑証明を区役所へ取りに言った経験があるのだという。そこで見た風景やドタバタを巧みに取り入れ、一席のネタにした。涙ぐましい努力である。
印鑑証明の意義が徐々になくなり始めた戦後は余り演じなくなった。
今でこそほとんど死んだ噺に近いが、当時の風俗を知る上では面白い資料である。
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