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節真似の市場亭鯉造
人 物
市場亭 鯉造
・本 名 中根 鐵次郎
・生没年 1872年2月18日~1915年以降
・出身地 ??
来 歴
市場亭鯉造は戦前、浪花節黎明期に活躍した浪曲師。節真似を得意としたそうで元祖浪曲物真似の芸人と言ってもいいのかもしれない。浪曲自身はそこまでうまくなかったらしい。
元々は神田市場亭のお茶子だったらしい。お茶子とは従業員――とでもいうべきだろうか。
神田市場亭とは明治中期から存在した浪曲専門の寄席で、浪曲勃興当時は大ろじなどと並んで最高峰の寄席と知られた。
そこの従業員であったが志し合って浪曲師に転向。師匠は不明。
妻は市場亭小花(本名・中根はな 1880年~?)という曲師であったという。
浪曲自身はあまり上手くなかったらしいが、なかなか器用な人だったらしく、当時の幹部や人気者の節を巧みに真似たという。
1905年2月、セクハラで逮捕されている。どうしようもない。『朝日新聞』(1905年2月3日号)に、
●鯉蔵の拘留
……浪花節語り鯉蔵事中根鐵次郎(三十二)といふ男にて先月三十一日横浜市賑町の寄席寿亭へ出席し草双紙を種の続き話素より細かには参らねど覚えましたる筋道だけとを見台を叩いて読上げたる後楽屋にて熱燗二三杯煽り付け其勢火にて汽車に乗らんと夜八時頃横浜停車場へ入りたるに此時同所の婦人待合室に年廿七八の一婦人同じく発車を待合せ居りしを鯉蔵は見るよりイヨー別嬪と声を掛け無礼にも其婦人に飛付きて接吻したるより婦人は勿論居合せし人々も驚き騒ぎ直に警官の出張を求めしかば無礼者の鯉蔵は大いに狼狽し其場は逸早く逃延びたれど一昨日又々横浜へ赴きたひるより忽ち警官に捕へられ拘留十日の処分を受し由なり
『天鼓』(1906年2月号)の浪曲批評の中で、
▲市場亭鯉造 中入過ぎての物真似、声のよきカブリツキよと一段声き了ればお難有うお静かにと高座からの挨拶也、何だ真打ちは来ないのか、今のがそれだ
と茶化されている。
『読売新聞』(1907年4月3日号)掲載の素人『浪花節慈善演藝を聴く』に、
▲市場亭鯉造 声は益々引締つて当代斯界の随一と思ふが五年振りの見参に十八番の沖騒動を聴かせられたさへあるにかてて加へて相変らず大口を叩いて居たのは苦々しき次第である、鯉造よ今日は君が大ろじの前座で全盛を謳はれた時代ではないのだ
1913年にはなぜか廃業扱いにされている。『二六夕刊』(1913年6月11日号)の「講談社のヨタ番付」の中に「五、六年前に廃業した鯉造がいたり」とある。そのくせ、舞台に出ているのでわからない。
1915年の『芸人名簿』に名前が出ている。生年月日はここから割り出した。
1910年代まで細々と出ている様子が確認できるが、如何せん謎が多い。浪曲が娯楽の王者になる前に亡くなったのは確かなようである。
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