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名門三代・京山小円(三代目)
人 物
京山 小円(三代目)
・本 名 平野 清治郎
・生没年 1912年4月23日~1976年10月10日
・出身地 大阪
来 歴
京山小円(三代目)は戦前戦後活躍した浪曲師。京山小太夫という名前で売り出し、戦後に大名跡の「京山小円」を襲名。衰退する浪曲界の中で奮闘を続け、京山小円家秘伝の「三段流し」とその大きな看板を守り切った。
大名跡の割には経歴に謎が残る。『浪曲事典』では、
京山小円②大正九年二代目小円に入門、小西郷から小太夫と改名③昭和三十三年三代目小円を襲名④「赤垣源蔵」「佐倉義民伝」を得意にしている。
一方、『上方芸能88号』(1985年6月号)の「浪曲研究会公演記録」(1957年6月12日公演)の記録を見ると、
〈芸歴〉昭和二年一月十二日京山小円に入門、円声を名のる。五年四月京山小太夫と改名。
と齟齬が生じている。前者の方が正しそうであるが、非常に微妙な所。小太夫の名跡は1958年に小円を襲名するまで30年以上名乗ってきたはずなので、上の人物は三代目と同一人物とみるのが正しいだろう。
芝清之『浪曲人物史』によると、大阪で花屋を営む両親の元に生まれ、四人兄妹の二男。幼いころから浪曲が好きで、京山圓(後の二代目小円)に入門。「京山小西郷」と名付けられたという。
入門当時は大師匠の小円や小円の兄弟分・若丸が健在であり、諸々の先輩から薫陶を受けた。師匠の前座を中心に多くの一座に出入りをし、芸を学んだ。
一時期は初代小円の手元に置かれ、彼の芸を目の当たりにして育った。そのおかげで「三段流し」や「飛行機節」といった技巧を会得し、小円そっくりの若手浪曲師として売り出す事となる。
「京山小太夫」と改名して、一本立ち。一座に出入りをして芸を磨き、新鋭若手として売り出した。芸は師匠譲りの「義士伝」「佐倉義民伝」「桜川五郎蔵」などを器用に読みこなした。
1938年の番付では「新進と中堅幹部」にランクイン。
1941年の番付では二段目・前頭十一枚目にランクイン。
1943年の番付では三段・前頭八枚目にランクイン。あまり高くはない。
戦後は主に巡業で活躍。この一座のお手伝いに入って来たのが姪の小西かよ子で、この子を弟子にしてしまった。これが今の「京山小円嬢」である。
復興後は大阪に戻り、地道な活動で人気を獲得した。浪曲不況で、多くの浪曲師が舞台を去る中で奮闘を続けた功績は大きい。
1958年、師匠の二代目より三代目小円を許され襲名。以来、大劇場の浪曲大会でもおなじみの顔となった。
老いてもなお美声を保ち、「三段返し」といった息の長い義太夫風の浪曲の技巧を伝えた最後の人であった。徹底的な美声と品格で、グッと観客の心をつかむ芸風を持っていた。品格で三代目の格を守ったといえよう。
晩年は愛弟子の京山小円嬢の出世を楽しみにしていたが、病勝ちになり最終的には糖尿病で苦しんだ。
最晩年は胃がんになり、舞台からも退いた。闘病生活を送っていたが、1976年10月に死去。『浪曲ファン60号』(1977年2月号)の中に、
◇3代目京山小円が昨年10月10日、胃がんと糖尿病で死去した。
と訃報が掲載されている。
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