無一文からの成り上がり・京山吾一

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無一文からの成り上がり・京山吾一

 人 物

 ・本 名 南川 吾一
 ・生没年 1887年~1926年7月
 ・出身地 徳島県 応神村

 来 歴

 京山吾一は戦前活躍した浪曲師。日吉川秋水、藤川友春と並ぶ滑稽読みの名人で、若くして浪曲親友派の大幹部に就任するなど、名実ともに大看板であったが40代で夭折をした。

 経歴は『浪花節名鑑』に詳しい。

 師は明治廿年徳島県板野郡応神村大字古川二十三番屋敷南川平太郎の次男に生まるは若年にて世を去り九歳にして両親は此の愛し子を残して遠き還らぬ旅でをした時一小学三年勉学中親類の悪計にかかり田地田畑屋敷に至る迄他手に取られ、憐にも十二の歳僅かな旅銀にて大阪へ乗出し何とか一旗挙げんと、三軒屋の紡績に雇はれ十四歳の時籠職となり又鍛冶職に従事中某夜、京山恭為の由井正雪、伊勢丸の神力章吉、恭一の医者問答を聞き痛く其妙技に感じ、其後は仕事も手に付かず十八歳の二月に恭一が天満吉川館に出演中同師の門に入り二日目より前席を読み拍手喝采を受け、それよりは寝食を忘れて芸道に励み日進月歩今日の如き人気を博するに至る。

 若い頃から苦労を重ね、それが発奮のタネであったという。事実上の無一文から、浪曲の幹部にまで成り上がったのはちょっとした出世譚である。

 二代目京山恭安齊の弟子である京山恭一に弟子入りし、「吾一」。本名から名付けたという。

 師匠の恭一がケレン読みだったところから「薮井玄以」「左甚五郎」などを読みこなした。

 一方で早くから他流試合に出かけて多くの芸を学びこみ、なんでも読みこなせる名人として君臨した。

 1912年頃、なぜか「京山龍鳳」と改名し、堺公会堂で襲名披露をおこなっているが、すぐに吾一の名に戻っている。解せぬ。

 後輩の梅中軒鶯童は『浪曲旅芸人』の中で、

 京山吾一は、実力に於て秋水を凌ぐと言われた程の芸達者、師匠恭一譲りの薮井玄意、自作の左甚五郎といったケレンものから、相馬大作、伊達騒動など、いわゆる金襖ものまで読みこなした人

 と称賛されている。

 1918年7月には、伊藤高麗右衛門の一座に入って、京都明治座に出勤している様子が『近代歌舞伎年表京都編』に出ている。

「左甚五郎」や「相馬大作」を読んでおり、滑稽物の神髄を遺憾なく発揮している。

 1920年頃には、芙蓉軒東天・京山呑風と共に「三兄弟会」を結成。固い東天、新物読みの呑風とバランスよく一座を結成し、巡業に出たという。

 1925年には「伊達騒動」の速記を発行し、一躍男をあげたがそれから間もなくして病気に倒れ、亡くなった。

『浪曲旅芸人』の中に、

 大正十五年という年は日本の国にとってもまたわれ等浪曲界に於ても最悪の厄年だった。関西の典型的なユウモア浪曲の大家が、揃いも揃って三人、この年に亡くなった。日吉川秋水・京山吾一の両師が七月に、秋には永年疾で悩んでいた藤川友春師が死去した。暮れには、大正天皇が崩御された。

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