ハワイ生まれの二世浪曲師・京山貞奴

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ハワイ生まれの二世浪曲師・京山貞奴

 人 物

 ・本 名 廣田 貞子
 ・生没年 1919年頃~??
 ・出身地 ハワイ ヌアヌ

 来 歴

 京山貞子は戦前活躍した浪曲師。ハワイの日系二世として生まれ、アマチュア浪曲で活躍の後、ハワイに巡演に来た浪曲師を頼って日本へ修業にやって来て、浪曲師になったという変わり種であった。

『日布時事』(1941年7月1日号)によると、ハワイヌアヌで花屋を営む広橋定雄の娘として生まれた。両親は日本からハワイへ移った移民で、貞子は日系二世であったという。

 浪曲師になるまでの敬意は『日布時事』(1941年9月6日号)の中で詳しく語っている。

私は幼い時から浪花節が好きでした、当時全盛でありました寿々木米若のレコードを聴いて何だか非常に心を惹かれ心打たれるものがあり、自分も将来何とかして、世間の人さまの噂にのぼる様な立派な浪曲師になりたいと仄かな希望を胸に抱いて居りました。此の浪曲界の王座への私の憧憬は年と共に愈々募り、一九三五年吉田奈良友が来布は最後の決意を私に促し、遂に意を決して奈良友とと共に渡日し、当時関西浪曲界で飛ぶ鳥も落とすほどの人気を博してゐました名人吉田好子師匠の門を叩き弟子にして戴きたいとお頼み申しました

 1935年夏、ハワイを巡演していた春日野越後(旧名・吉田奈良友)に浪曲師になりたい旨を打ち明け、彼らと共に新人浪曲師としてハワイ一円を巡業。その辺りの広告は『日布時事』(7月15日号)などにある。「廣田貞子渡日告別を兼ね帰朝お名残り浪曲大会」と凄まじい会が催されている。

 その後、奈良友の仲介で来日し、京山好子の弟子になった。

 その後の経緯も『日布時事』(1941年9月6日号)に詳しい。

、最初は師匠も修業の辛い事等を話して私に浪曲界入りを断念するやうに申されましたが、私が門を叩く迄の堅い決心と覚悟を披瀝し度々哀願しました処、やつと入門を許されました時の嬉しさ……然し、此の喜びも束の間、日本に馴れぬ二世と云ふ悪条件や、毎日朝から夜遅く迄の修業の辛さ骨身にこたへ、今日は総てを断念して父母の許に帰らうか、明日は諦めようかとほんたうに泣き出したいことが度々重なりましたが布哇で私の名を成して帰って来る日を待ってゐられる父母の事や皆様の事を考へて、やつと耐へて来ました……初舞台は大阪の対象座で倉橋伝助を初読物として師匠より戴いた京山貞奴の芸名を以て語りました時は全く無我夢中……

 なお、貞奴は師匠の事を「浪曲界で飛ぶ鳥を落とす勢い」と評しているが、当然浪曲界では知られた存在ではない。遠いハワイだからこそ通じる、こけおどし的な宣伝であったのかもしれない。

 6年間師匠に仕えて一本立ちを果たし、ハワイへ帰郷。同じくハワイ出身の先輩浪曲師・鈴木照千代と一緒に1941年春に帰郷、凱旋公演を果たした。

 演目は『忠臣蔵』『乃木将軍』『石童丸』『壺阪霊験記』など、オールマイティな作品を得意としたらしい。

『日布時事』(8月30日号)によると、自作の枕を披露して、ハワイの仲間や二世の喝采を得たという。文句は以下の通り。

椰子しげる 島で生まれて十六の 娘の恋はさくら咲く 母のふるさと父の国 おもひかなつて懐かしや 浪花にしるき京山の 門に修業の明け暮をなれぬ 二世のつらひこと 泣きたいことの数々も やつと耐へてやうやうに 習いおぼへた浪曲は 浪花の根締京山の 名も許されて貞奴 されど遥けき芸道の 京山の峯いや高く やつと麓を踏み出した 未熟な芸と知りながら 生れ故郷の皆様に 一度は聴ひていただいて おほめの言葉をたまはらば これに過ぎたる喜びは ないと思へば矢も楯も 越えるに難い大阪の 関もいつしか突破して 幾夜寝ざめの浪枕 うれしなつかし夢の島 わがはらからのゐます国 アロハのレイに埋もれて 帰り来ました六年目 晴れの舞台で皆様へ お目もじ叶ふ貞奴 ただ感激に胸せまり 声も調子もままならず お聴きぐるしい節々も 二世のわざとご寛容 いくとせまでも末永く おひいき下し給わるやう 伏して懇願たてまつる

 ハワイ各地で好評を博し、故郷へ錦を飾った矢先の1941年12月8日、真珠湾攻撃が発生。攻撃当時、貞奴一行はマウイ島にいた。

 この一件で日米は戦争状態に入り、二か国は分断状態に入った。ハワイに籍のある貞奴はハワイに残ったようであるが、黄禍論や日本人排斥に巻き込まれ苦労を続け、浪曲師を廃業してしまったと聞く。

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