妙国寺事件の名手・京山雪洲

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妙国寺事件の名手・京山雪洲

 人 物

 京山きょうやま 雪洲せっしゅう
 ・本 名 中村吉太郎 
 ・生没年 1898年5月5日~
1965年以降 
 ・出身地 大阪

 来 歴

 京山雪洲は戦前戦後、関西を中心に活躍した浪曲師。十八番の「妙国寺事件」が売りで、見事な節と語り口で関西の浪曲ファンを唸らせ、長い息を保った。

 尋常高等小学校を卒業後間もなく、1912年5月、京山派の幹部・京山愛昇に弟子入り。「京山小愛昇」と名付けられ、厳しい修業を耐えた。

 間もなく、千日前愛進館で初舞台を踏み、浪曲修行の道へと走り始めるようになる。

 師匠の愛昇はケレンと呼ばれるお笑い浪曲が十八番であり、雪洲もまた「水戸黄門漫遊記」などを受け継いだ。

 ただし、雪洲当人はケレンよりも実録物がとくいだったという。中でも「妙国寺事件」は彼を代表する演目として売れに売れた。

 大阪境港で起こった土佐藩士とフランス人の銃撃戦、そしてフランスの怒りをおさめるために藩士たちが処刑される、その顛末を見事な語り口で表し、聞くものの涙を絞ったという。

 余りにも得意だったとみえて、晩年には「妙国寺事件 京山雪洲」というキャッチフレーズまでつく始末であった。

 数年後に独り立ちをして、様々な一座に売り出しをかけて旅から旅で暮らした。時には満洲、朝鮮まで行っていたというのだから大したものである。

 1928年に「京山雪洲」と改名している。理由は不明。

 昭和初頭、浪曲師たちの兄弟会ブームに乗じて、宮川松安、日吉川秋次、京山雪洲の三人で「新興会」なるグループを結成している。

 こうした芸の研磨もあって、関西でも随一の売れっ子、注目株としてもてはやされるようになった模様か。

 1937年5月、テイチクから「噫世は夢か幻か」を吹き込み。他にも十八番の「妙国寺事件」が吹き込まれていたりする。

 1938年の浪曲番付では「大御所」としてくくられている。この頃既に知名度を得ていたのだろうか。

 1941年の浪曲番付では、西前頭筆頭となかなかいい地位にいる。

 1945年春、情報局から満洲浪曲会をやってほしい、と勧められ、友人の宮川松安、京山呑風、吉田若春と共に満洲に渡った。

 同地で浪曲を演じている最中、敗戦を知った。一行は引揚げで逃げ惑う。途中で松安は「内地に戻っても混乱がある。ここは食糧があるから中国に残ろう」と主張。一方の雪洲は「中国やソ連はなにしでかすかわからんし、まだ軍票が効くうちに帰ろう」と主張。

 双方話し合ったがまとまりがつかず、雪洲と若春は松安を置いて引揚げ船に直行。この目論見は皮肉にも雪洲に軍配が上がった。

 しかし、別れてしまった呑風はふとした病から寝込み、そのまま死んでしまい、船から水葬にあう――哀しい哀しい最期であった。また、松安は死にこそしなかったものの、引揚げまでに2年近くの期間を有し、引き揚げてきた時には乞食同然の姿であったという。

 帰国後、再び浪曲界の第一線に復帰。1947年12月26~28日に行われた「京都座吉例浪曲顔見世興行」に出演。『近代歌舞伎年表京都編』をみると、

中川伊勢吉、雲井一声、京山華千代、廣澤虎吉、梅中軒鶯童、富士月子、吉田奈良丸、吉田奈良千代、筑波武蔵、京山幸枝、京山小円嬢、太刀原幸門、日吉川秋水、日吉川秋斎、松浦四郎、広沢瓢右衛門、広沢晴海、京山雪洲、帰還挨拶 宮川松安

 が、メンバーであったという。立派なものである。その後も焼け残った寄席や巡演で活躍し、着々と地位を築き上げた。

 戦後に建て直された浪曲親友組合に参加し、日吉川秋水会長の下で理事に就任。日吉川秋斎政権の下では、会計理事を務めるほどのやり手であった。

 1951年1月30・31日、大阪中央公会堂で行われた「二代目京山幸枝・二代目京山幸玉襲名公演」に出演。

 1957年4月27日、毎日放送の「浪曲研究会」に出演し、十八番の「実説妙国寺事件」を口演している。

 その後も浪曲界の長老として、寄席や浪曲大会、巡業など気楽に活躍を続けていた。

 1965年2月26日~3月1日に開催された大阪朝日座の浪曲大会で引退披露を実施。京谷幸枝若、春野一郎、富士月子、吉田奈良丸、吉田一若、広沢駒蔵、松浦四郎、京山小円などが列席し、古老の引退を見送った。披露口上も行われたという。

 それ以降、浪曲界から距離を置き、その後没した模様か。

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