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上方落語と意外な関係・都家三勝(二代目)
人 物
都家 三勝
・本 名 横田 伸次郎
・生没年 1899年2月~1975年以降
・出身地 ??
来 歴
都家三勝は戦前活躍した浪曲師。人気は中堅止まりであったというが、この人の息子の横田弘は桂米之助・桂文枝と仲が良く、彼らを落語界へといざなった一人であった。上方落語との意外な関係とはここである。
経歴は殆ど不明――であったが『東西浪界写真名鑑』に出ていた。
本 名 横田伸次郎
生年月日 明治三十三年二月
師 匠 初代、三勝
初門年月 八才
また「昭和十六年浪曲真打番付」にわずかであるがプロフィールが出ている。
一、本名 横田伸
一、師匠 初代三勝
一、初舞台 十四歳
一、趣味 野球、読書
一、十八番 国定忠治、清水次郎長
この都家三勝という人は、浪曲の立役者の一人・都家勝寿の門弟に当たる人で主に大阪で活躍したと聞く。芸は相応に上手かったらしいが、大出世とまではならなかった。
若い頃は「都家新勝」と名乗って居り、天才浪曲師と謳われたらしい。
1928年3月11~13日、名古屋放送から「藤堂高虎」「破れ太鼓」「清水次郎長」を放送。都家三勝としか書いていないが、多分この三勝だろう。
1928年10月11日と13日、放送開始直後の広島放送局から「清水次郎長」「破れ太鼓」を放送している。
1929年6月1日、広島放送局から浪曲を放送。
1929年12月3~4日、広島放送局から「森の石松」を二夜放送。
爾来、大阪の中看板として活躍する事となった。
1929年頃、息子の弘が誕生。『桂米朝集成』の座談の中で、米朝や米之助が「学校で国旗を揚げる時にね、二人が週番やから」「横田が班長でこの人(米之助)が副で、そのハーモニカバンドが出来たわけ。」などと発言しているのを見ると、米之助と同級だった模様。この年の生まれか。
この弘は父の関係から芸事が好きで、幼い頃から芸界に出入りをしていたという。ただ本業の落語や浪曲はあまり上手くなかったという。
戦後まもなく桂米団治に入門して、「桂米歌子」。米之助とはほぼ同期、桂米朝から見れば兄弟子である。
ただ、すぐ廃業したらしく、桂文枝は『あんけら荘夜話』の中で、
私は浪曲が好きでしたから、矢倉君ともよく浪曲の話をしました。彼も浪曲が好きでしたし、都家三勝という浪曲の息子で横田君という人と学校友達でした。この横田君は、のちに米團治師匠の弟子になって「米歌子」(べかこ)という名前をつけてもらいましたが、すぐに廃業しています。
と触れている。
戦後も活躍していたが、なぜか引退してしまった。それでも健在だったらしい。
1975年2月26日、大阪郵便貯金ホールで桂米朝が『米朝好み浪花節巷談 なにが・なにして・なんとやら』を開催。ここでカムバックを果たし「浪花節のマクラ二種・誰が袖の音吉」なる作品を演じている。
この時の出演は元ライバルだった広沢瓢右衛門の「太閤記」「英国密航」、梅中軒鶯童の「浮かれ節」、広沢晴海「不動萬吉」、五条家菊二・松枝の「混線浪花節」、計見八重山の祭文、義太夫の豊竹小松太夫、真鍮家好延・好文の江州音頭。
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