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九州浪曲界の長老・春光斎柳風
人 物
春光斎 柳風
・本 名 ??
・生没年 1893年~1978年以降
・出身地 大分県 玖珠
来 歴
春光斎柳風は戦前戦後活躍した浪曲師。東京と関西と浪曲の本場が集中していく中で、九州での活躍を継続的に続け、九州最後の売れっ子浪曲師となった。90近い齢を保ち、最晩年小沢昭一と出会っている。
経歴は小沢昭一『放浪芸雑録』に詳しい。
春光斎柳風師は明治二十六年生まれの本年八十五歳。奥さんともどもお元気の二人暮しであった。
出身は「大分玖珠」。1911年頃に福岡の浪曲師・小雀春光斎に入門をした。『放浪芸雑録』曰く、
「私は大分県玖珠の出身ですが、七回も出して、十八の年に小雀春光斎のところに入門した。ふつうなら十円ぐらいの入門を取られるところだが、紹介者がよくて入門料をとられなかった。 あの頃の弟子は、浪花節を教わるよりも、まず風呂たきと掃除洗濯ばかり、フロ銭二銭もらって、たまに湯に行くのがたのしみで、その時兄弟子とどこかで手拭いだけ水にぬらして顔ふいて、その二銭でヤキイモ食ったりしたもんです」
姉弟子には小雀ミヤ子こと春野百合子がおり、幼い頃の春野百合子の姿を知っていた。お守もした事もあるらしい。
小雀春光斎の巡業に随行して芸を覚え、一枚看板となった。師匠の住んでいた福岡の普賢堂に居を構え、ここでほとんどの生涯を過ごした。
普賢堂には多くの浪曲師が住んでおり、一種の芸人街だったそうである。
「金川錦竜、吉川光、吉川梅舎、吉川梅雀、桃中軒妙雲、桃中軒天明、この角の家が島田桃玉、荒巻柳城、雲井宝山、質屋の裏の借家に宮川秋月、桃中軒如月、アメリカへ渡った桃中軒波右衛門もいた。一心亭春駒、鼈甲斎峯丸、桃中軒大八は五、六年いましたか······三味線では原野春太郎、菊川京一、吉川実……」
と、柳風が最晩年に思い出せただけでもこれだけいる。さらに大幹部も出入りしていたといい、明治から大正にかけて賑やかな所であった。
基本的には九州巡業で暮らしており、巡業を除いて関西以北へは行かなかったという。関西の親友派にも関東の浪曲協会にも加わらず、九州の浪花節組合を結成して独自の勢力を誇示した。
九州では「巡業の世話をすると上がりを一割貰える」というルールがあったそうで芸人の斡旋業も行っていたという。
「田舎から祭りの世話役の青年なんかが浪花節を買いに博多へ来るんです。で、普賢堂へやってきて、ここの 表の看板を見ながらどれがよいかなと物色して歩いている。そうすると、玄関先で洗い張りの張り板なんか干している女房連中に声をかけて聞くんですね。そこで待ってましたとばかり、あの人とあの人がいいよ、なんて自分もまぜて世話する。 世話すると一割になるんです。春先きなんか大勢やってきますから、女連中はわざと表へ出て待ってるんですよ。 カチ合ってケンカになることもある、ハハハ」
と『放浪芸雑録』の中で語っている。
九州の浪曲師の中では相応に人気もあり、名声は関西にまで轟いていた事もあった。古典から新作まで何でもこなす芸達者と伝えられる。
1934年5月20日、熊本放送に出演し、「報恩美談・本田検事」を放送。
1935年の番付では西二段目・前頭20枚目。すぐ後ろには満洲日出丸がいる。
1936年の番付でも同等の位置にいる。
1943年の番付では西二段目・前頭21枚目。
戦後は慰問や巡業で何とか稼ぎ、戦後も活躍。東京大阪の浪曲ブームを尻目に九州一円の関係者や贔屓を相手に浪曲を演じ続けた。元祖ローカル芸人と言ってもいいのかもしれない。
後年、老年のために引退し、楽隠居をしていた。
1971年に小沢昭一の来訪を受け、浪花節昔ばなしを語った。小沢昭一が「鮮明な記憶力」と舌を巻くほどであったという。その成果は『放浪芸雑録』にまとめられている。
その後間もなくして老衰のために没したというが詳細不明。
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