麒麟児・橘雲平

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麒麟児・橘雲平

成人後の雲平

 人 物

 たちばな 雲平うんぺい
 ・本 名 小菅 仙之助
 ・生没年 1894年3月20日~1948年2月28日
 ・出身地 東京

 来 歴

 橘雲平は戦前活躍した浪曲師。成人前から大劇場で独演会を行い、「天才児」「麒麟児」の名声をほしいままにした。

 生れは東京だという。幼い頃から浪曲が好きで小学校卒業後、二代目鼈甲斎虎丸に入門。虎丸の秘蔵弟子という形で、全国を巡業し修業を重ねた。

 虎丸系統の芸題も読んだが、若い頃は雲右衛門に私淑し雲節や雲の芸風に影響を受けた。「雲平」と名乗った所から見てもよくわかるだろう。

 1913年5月1日より、浅草大勝館で独演会を行い、一躍麒麟児として高い評価を受ける。同じころ、売り出してきた少年浪曲師・山田芳夫、桃中軒如雲などと共に鎬を削った。

 爾来、麒麟児の評価をほしいままに大劇場や寄席に出演し、八丁荒しの異名をとる程の人気を博した。

 1915年1月、ニッポノホンより『赤垣源蔵徳利の別れ』を吹き込んでいる。少し状態が悪いが、日文研で聞ける。凄まじい声量を聞かせる。天才児の片鱗をうかがわせる次第。

 兄弟子の虎丸や、天才浪曲師として人気のあった天中軒雲月などに可愛がられ、彼らのモタレを勤めるなど周囲には恵まれた。

 1928年、兄弟子の鼈甲斎虎丸の門下に入って、「鼈甲斎虎一丸」と改名――というのが通説であるが、1927年5月7日にラジオへ出た際、その紹介欄には「吉良の性格 鼈甲斎虎一丸」とあり「先月の二十日頃、橘雲平と改名したのである」。

 1927年4月20日ごろには既に改名していて、1928年に披露目を行ったと解釈すべきだろうか。『都新聞』には1928年に改名したとあり謎が残る。個人的には、1927年改名説をとる。

 1927年5月7日、JOAKより「吉良の性格」を放送。

 1927年11月23~26日、名古屋放送より「塩原孝子傳」を連続放送。

 1928年10月1日、名古屋放送より「涙の裁判」を放送。

 1928年10月2日、名古屋放送より「赤垣源蔵」を放送。

 虎一丸改名後の舞台姿の記録は少ないのだが、『浪曲ファン77号』の三谷松男『あの声・あの姿』の中にあったので引用しよう。

 鼈甲斎虎一丸

私は一丸師を語る時、いつも港家華柳丸を、華柳丸を語れば虎一丸が浮んで来ます。それ程二人は似たような芸達者でした。客と演者とのへだたりがなく、いつも「おらんどこの虎一丸」と云った気持で、安心して聴きほれるのでした。調子は低調子で、矢張り雲節を基にしたのでしょう、流れるような名調子でした。 師は唯の弟子かは知らないけれども、 鼈甲斉を名乗る芸人には巧い人が沢山居ました。虎王丸も巧かったが、 愛きょうがなかったので「とんがり」と云う仇名がありました。
 鼈甲斉と云へば、二代虎丸の頃から安中三が売り物でしたので、虎一丸が高座に上がるとお客が「安中ッ」と注文をつけると、師はためらうことなく「では安中の〇〇の一席を」と云って受けてから、スグには外題は這入りません。当時流行った 流行歌を唄うんです。すごく良い声で、とても上手でした。体を上下にゆすぶって間をとります。それが客に受けてドット拍手が来ました。そこで間髪を入れず外題づけに這入りました。東京では殆んどもたれ専門の感がありましたが、こう云う達者な人がもたれだと、トリは余程しっかりしないと持たなくなります。「喰はれないように気をつけな」などと、実力のともなわないトリは、先輩から注意されて居りました。
 この人が昔、浪花節の天才児と云はれて初期のレコードにも吹込んでゐる橋雲平の後身であるとは……昔、私が或る席上で浪界の大御所と云はれた人と同席をした時、色々と芸談の後、フト洩らしたその人の一ト言を忘れません。
「私は浪花節と云う芸の上で怖いと思う相手は今ありませんが、昔、橘雲平を聴いた時、私はゾッとして背すじに冷たいものが走りました。 一瞬、雲右衛門の生まれ変わりではないかと思いました」と……私は雲平時代は知りませんが、レコード は聴きました。虎一丸のレコードも数少なく、浅草で一度聴かせて貰いました。想い出しても微笑ましくなる浪曲師でした。

 兎に角達者、悪達者と思えるほどの味わいがあったようである。

 一方で、その達者さゆえにトリを取るだけの華々しさが薄かったらしく、遂には大看板になり損ねた。ある意味ではモタレの名人だったというべきだろうか。

 1930年代後半に入ると、師匠分の虎丸が死に、雲月も卒倒して舞台に出なくなってしまい、引き立て役がいなくなってしまった。四代目虎丸襲名戦争も敗れ、ますます覇気に欠けるようになってしまったともいう。

 戦争の悪化もあって、徐々に表舞台から姿を消し、いつしか病臥に伏せるようになった。 

 1948年2月28日、55歳の若さでひっそり息を引き取った。足立区千住の勝専寺に墓があると芝清之の調査。

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