[random_button label=”他の「ハナシ」を探す” size=”l” color=”indigo”]
百面相の松柳亭鶴枝(三代目)
人 物
松柳亭 鶴枝
・本 名 尾藤 三五郎
・生没年 1897年~1947年3月6日
・出身地 横浜
来 歴
松柳亭鶴枝は戦前活躍した百面相の芸人。扮装と表情で色々な物真似をする「百面相」の生き残りとして活躍したが、戦時中に廃業した。ロカビリーとアニメ主題歌の歌手として知られる尾藤イサオはこの鶴枝の実の息子である。
その前歴には謎が多いが、一応「松柳亭鶴枝」の名跡を継いだこともあって、『古今東西落語家事典』に経歴が出ている。
【三代目松柳亭鶴枝】
尾藤三五郎
明治30年(逆算)〜昭和22年3月6日 51歳
三代目は、二代目の門人の古松家鶴輔が、大正十三年六月に襲名した。神田白梅亭での真打昇進と同時に披露している。 三代目は百面相に世相を反映させ、風俗習慣を擬態化して演じるなど、今までの顔芸にとらわれず、マラソンランナーなどのスポーツをマンガチックに演じた。 また、小道具を採り入れるなどして、形態模写に力を注いだが、のちに私行上の問題で落語界から去ることになった。
昭和二十二年三月六日に死亡。墓は新宿の法蔵寺で、戒名は鶴誉浄念信士。
また、『古今東西噺家紳士録』の山本進の解説には「三代目柳家小さんに入門」「大正二年一月浅草並木亭が初舞台という」との記載がある。小さん門下から、兄弟子の門下に移って百面相の芸人になった、とみるのが妥当であろうか。
なお、文中「私行上の問題」というのがあるが、この事に関する推測は後述する。
出身は横濱だったらしい。『芸能懇話』で発掘された、1921年11月発行の『寄席 第十七号』の◇「横浜から」(横浜新富亭にて・阿呆百笑)の中に、「当地出身の愛嬌者百面相の鶴輔」とある。
鶴枝の門下に移った後は、落語睦会に属し、「音曲」「百面相」の二枚看板で活躍。若い頃から音曲に聡かった模様か。1920~22年頃は京阪を中心に活躍している様子が『上方落語史料集成』などで確認できる。
この頃、とくという女義太夫の芸人と結婚、とくは「尾藤とく」と改称した。倅の尾藤イサオは『週刊文春』(1997年1月16日号)の『家の履歴書』の中で、「お袋は義太夫の三味線弾きです。」と語っている。
なお、震災以前に住んでいた浅草の住まいの近所(隣?)には加太こうじがいる。加太は後年随筆に此の事を書いている。
1925年10月28日、JOAKに出演し、「寄席のお囃子」と称してお囃子の実演と解説を行った。これが唯一のラジオ放送出演ではなかったか。三味線は妻が受け持ち、鳴り物には兄弟弟子の春風亭枝雀が受け持った、と当時の資料にある。
1931年、長女誕生。これ以降、1933年、1938年、1940年、1943年と男の子を授かる。
1943年に生れた末っ子が「功男」――尾藤イサオである。
震災以降は妻を下座に、東京の各寄席や劇場で活躍。師匠譲りの「タコ踊り」「七福神」「仁丹」といったお馴染みのものだけでなし、「乃木将軍」「水兵」「大星由良之助」など、映画や漫画で人気を博した人物を取り入れる工夫があった。
漫画や絵本をよく勉強し、また百面相という理屈抜きの芸のお陰か、子供会の余興などにもよく呼ばれたという。
1935年にはPCLから発表された『ラジオの女王』に特別ゲストとして出演。
子供の父兄としてお遊戯会に参加し、百面相を見せ、違う子供から「あのおじちゃん、バカ」とからかわれる可哀想な役であるが、肉声と芸風の一端を知る事が出来る。
その後も活躍するのだが、1930年代代後半に「私行上の問題」で芸界を追われる羽目となる。この追放理由と思しきことは、当時の『都新聞』にあるのだが――色々と差しさわりが出てくるので詳しく述べられない。警察沙汰があったとだけ記しておこうか。気になる方は探してみてください。
事実上の追放を受けた鶴枝は失意のうちに死去。51歳の若さであった。
その死は実に侘しいものだったそうで、一番下の功男は父が死んだことを理解できず、「親父が死んだ時、僕が親父の顔にかけられた白い布を取って「お父ちゃん、早く起きて、起きて」って言った」と『家の履歴書』の中で語っている。家族や関係者が幼気なイサオの姿を見て涙したのは言うまでもない。
大黒柱を失った一家は小島町へ転居。小さいながらも立派な家に収まるが、稼ぎ頭がいない為にすぐさま困窮を極め、『家の履歴書』によると、「やっぱり家計が苦しいわけです。それで上の一間を人に貸して、少しするともう一間も」人に貸す有様であったという。
一番上の姉はお汁粉屋に奉公し、長男は松乃鶴夫と名乗って百面相の芸人となり、父の後を継いだ。母親は倅を立派な芸人にすべく、自ら後見に就いたそうである。
弟の尾藤イサオは、「親父が死んで、当時五歳だった一番上の兄が後を継いでからは、お袋はそのバックで三味線を弾いてたみたいですね。」と語っている。但し、右の発言の「当時五歳だった」は変な言い方になっている。
しかし、姉の稼ぎは微々たるもの、兄の稼ぎも微々たるもので家計は一向に良くならず、イサオ少年は「給食費が払えずに何度辛い思いをしたか」と語る程の困窮を極め、最終的には民生委員に頼りになったという。
母のとくは、零落する一家の悲惨な身の上に耐えられなかったと見えて、酒におぼれていく事となる。
その酒癖の悪さ、酷さは尾藤イサオの記憶に強く残ったようで、『家の履歴書』の中でも、
「お袋も僕が小学校四年の時に死にましてね。酒で肝臓をやられて。僕を寝かしつけると言ってお袋は僕をおぶって時々路地に出るんですけど、僕がお袋の背中でウトウトしてると、急にお袋の身体が後ろに反って目がさめるんです。お袋が焼酎をラッパ飲みしてるんですよ(笑)。よく姉に叱られてました。でも酒でも飲まなきゃやってられなかったんでしょうねぇ。」
とその凄まじさを語っている。当時の酒質や衛生状況を考えると、そんな生活が身体にいいはずもなく、肝臓を壊し、夫の後を追った。イサオが小学四年の時――という事は、1952年頃か。
五人の子供たちの面倒は、とくの母が見ることになったが、娘婿に娘を失ったショックからその祖母も死去。五人の子供たちは成人もロクロクしないまま、世間に放り出される羽目になった。兄弟五人は日暮里の安長屋へと転居し、極貧の生活を送った。
姉は汁粉屋の奉公に加え、家事一式を担当し、長兄の松夫は芸能事務所を練り歩いて、仕事を貰って何とか生活費をねん出する――悲惨な生活が続いた。
間もなく姉がほおずき市で、嘗ての同僚の青年と再会し同居を始めるようになった。その彼氏が少しずつ援助をしてくれるようになったので、ギリギリ生きていけるようになった。
この青年と長姉は後年結婚し、幸せな家庭を築くことになる。
母死去当時、中学三年生だった兄は高校進学をあきらめ、静岡の会社に入社。残る中学2年の三男と、小学5年のイサオも将来を考えるようになるが、この頃、長兄・松夫の事を心配していた大神楽の鏡味小鉄が「兄弟を曲芸師にしないか」と相談を持ち掛ける。
この話を三男にした所、三男は「絶対嫌だ」は断固して拒否したというが、小鉄の優しさと家庭の困窮を悟ったイサオ少年は、小学六年生進級を機に、鏡味小鉄一門に入門。氏の内弟子として修業を行なうようになる。
イサオ当人は「口減らし」と自嘲しているが、小鉄家の住み込み修業は実家暮らしより天国だったそうで、家事掃除や稽古こそあれ、食う寝るところに住むところが保証され、おやつも出たので、イサオ少年は修行生活を苦と思わなかったとも語っている。
イサオ少年は「鏡味鉄太郎」と名付けられ、少年曲芸師としてデビュー。師匠の小鉄、兄弟子の小次郎と共にトリオで米軍キャンプや寄席に出演。後年は海外巡業まで行っている。
この海外巡業の時に洋楽の面白さに取りつかれたイサオは、師匠の猛反発を押し切って歌手に転向。ロカビリー歌手として一世を風靡したのはご存じの通り。
[random_button label=”他の「ハナシ」を探す” size=”l” color=”indigo”]
コメント