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広沢瓢右衛門の兄・広沢當昇(三代目)
人 物
広沢 當昇(三代目)
・本 名 鹿谷 義治
・生没年 1893年~1985年2月24日
・出身地 大阪市
来 歴
三代目広沢當昇は戦前戦後活躍した浪曲師。初代広沢當昇の弟子で「廣澤當右衛門」といっていた。『悪声伝』で知られる浪曲師・広沢瓢右衛門の実の兄である。弟以上の悪声であったというが、芸はうまかったという。
出身は大阪市浪速区。『悪声伝』によると、父は鹿谷貞次郎。母は鹿谷サト。父は床屋をやっていた。
1897年に弟の美士五郎誕生。これが広沢瓢右衛門である。瓢右衛門は本名「小島美士五郎」であるが、これは瓢右衛門が父の姉(伯母)の小島ナオ・馬吉の養子にもらわれたからである。
瓢右衛門の下に、実三郎、清喜重郎の弟がいる。
父からは床屋の跡を継ぐように求められたらしいが、青年時代に家を飛出し、浪花節語りになってしまった。
初代廣澤當昇の弟子になり、「当士春」という名前を貰った。師匠の下で修業を行って独立し、明治末には既に若手として活動をしていたというのだから古い。
駆け出しだったころの逸話が『悪声伝』に出ている。
一方、美士五郎の兄の義治は広沢当士春と名乗る浪曲師になっていて、あるとき、その当士春が旅籠町の秋葉亭に出演中、病気で倒れてしまうというアクシデントが持ち上がった。堺で当士春の知人といえば床市であり、身内といえば美士五郎だ。病身の当士春を床市が引き取り、美士五郎が身のまわりの世話をすることになった。そしてしばらくの間に、美土五郎は兄の当士春から初めて浪花節の手ほどきを受けたのだ。
兄からすれば退屈しのぎの、ちょっとした気まぐれだった。が、弟の美士五郎は目の色を変えて夢中になった。
しばらくして健康になった彼は弟と別れて再び旅興行に出たというが、この時に自信をつけた瓢右衛門は思い切って浪曲師になってしまい、1911年8月、初高座を踏む事となった。思えばなかなか罪深い兄である。
その後、桃中軒雲右衛門にあやかる形で「広沢當右衛門」と改名。一枚看板で大阪の寄席や巡業で堅実な活躍を見せた。
弟以上の悪声で節になると関係者も驚き呆れるレベルであったが、啖呵と独特の愛嬌があって面白かったという。そのため、節は殆ど唸ることなく、「節なし」とあだ名されるほどタンカで占められた独自の浪曲を展開した。
ただ、悪声ながらも叩き込んだ節は晩年老熟し、相応に聞けるものではあったそうであり、『国定忠治』『天保水滸伝』『弁天小僧』などといった侠客物は大阪の寄席でも大いにウケたという。
長らく「當右衛門」として各地を回ったり、寄席に出入りをして暮らしていたが、兄弟子の二代目廣澤當昇が引退し、師匠も引退することがきまり、自身に「三代目當昇」のお鉢が回ってきた。
1924年9月、師匠の引退披露とかねて正式に「廣澤當昇」を許された。ただ、襲名はもう少ししてからであったようである。
この頃には親友派の幹部に昇進し、番付にも名前が出てくるようになる。
1928年の番付では「親友派幹部 廣澤當右衛門」としてランクインしている。十八番は「国定忠治」。
この頃、正式に廣澤當昇を襲名。
1931年の番付では藤川友春などと共に「別格」としてランクイン。
1934年の番付でも「親友派幹部」としてランクイン。
1936年の番付では既に「若年寄・検査役」という御隠居ポジションにいる。活躍はしていたはずであるが。
1941年の番付では「家元・旧幹部」扱いされている。
戦後は巡業や焼け残った寄席に出演していたが、表舞台から退くようになり、興行師に転身。芸人の斡旋などをしても活躍していた。
1950年の番付でも「旧幹部」扱い。
放送や寄席で活躍していた弟と違って華々しい活躍はなかったが、それでも民放の勃興で時折放送に呼ばれるようなことはあったようである。
1964年の番付では「名流」として復帰している。
その後も何度か舞台に出たが、1968年頃を境に引退したようである。
それでも浪曲界とのつながりは断つ事はなく、後輩たちが芸や思い出を聞きに出入りはしていたと聞く。
最晩年は弟の大活躍を見ながら死去。92才という長命であった。
『月刊浪曲』(1985年4月号)に訃報が出ている。
瓢右衛門の実兄、 広沢当昇死去
広沢当昇師(ひろさわ・としょう=本名鹿谷義治) 22月1日午前6時20分、老衰のため大阪府東大阪市吉田1-6-7の自宅で死去。 九十二歳。 葬儀は20日午前十時から自宅で行われ、京山幸枝若らが参列した。 喪主は孫の長沢田鶴子さん。
三代目当昇師は、広沢瓢右衛門師の実兄。大正から昭和初期にかけて、関西の寄席読みの名 人として活躍した。弟瓢右ヱ門以上の悪声で「国定忠治」「弁天小僧」などを十八番にほとんどフシなしの浪曲で有名だった。 昭和四十三年頃、四天王寺会館での「なつかしの浪曲名人会」での口演が最後の出演となった。
晩年は、近辺の余興の世話などをして暮らしていたが、毒舌も瓢右ヱ門以上で知られている。それでも、幸枝若ら、後輩がよく出入りしていた。
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