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浪曲物真似吹込み・鼈甲斎雲龍
人 物
鼈甲斎 雲龍
・本 名 田中 長吉
・生没年 1887年2月5日~戦後
・出身地 ??
来 歴
鼈甲斎雲龍は戦前活躍した浪曲師。浪曲よりも浪曲物真似がうまく、レコード黎明期に浪曲物真似で食っていたという意外な余技があった。浪曲協会の名事務長と呼ばれた林伯猿は彼の弟子である。
生年と本名は『芸人名簿』より割り出した。中に「田中長吉(明治二〇年二、五)」とある。
正岡容『雲右衛門以後』によると元々は「床屋の小僧」であったという。
明治末に二代目鼈甲斎虎丸に入門し、「雲龍」の名を貰った。以来、鼈甲斎畑で活躍することとなる。
浪曲師としては鼈甲斎系の侠客モノやお家騒動などを読んだらしいが、本業の節よりも同業者のモノマネがうまかったそうで、レコード黎明期には「大幹部吹き込み」という名目で浪曲物真似を演じ、レコード吹込み料を稼いでいたという。
正岡容は『雲右衛門以後』の中で、雲龍から――
先年、筆者が鼈甲斎雲龍(林伯猿の旧師)と云ふ老浪曲師から親しく聞いたところでは、この雲龍、蝋菅吹込を一手に引受け、先方の望むがままに、重松の、愛造の、楽遊の、虎丸の節真似で吹込んでゐた。蝋管四、五本で二円貰ったり、三円貰ったりしたと云ふ。
といった話を聞いた旨を記している。
当時としては最先端な芸人で、物真似だけで豊かな暮らしが出来たというが、一方でそれがために大看板になり損ねたのは「オウムは哀しい鳥なのだ」といった所だろうか。
1926年に加藤喜一が入門。「鼈甲斎龍昇」と名付けた。これがのちの林伯猿である。
相応の実力があったというが、結局売り出す事はなく中看板で終ってしまったのは中途半端さゆえだろうか。
1941年5月、東京府支部第一回郷土部隊現地慰問団に参加。参加者はコロムビア歌謡曲の明本京静、小 暮まち子、大館とき子、高橋孝太郎、浪曲・鼈甲斎雲龍、漫才の柳家三亀夫・三亀代・三亀恵(『軍人援護』1941年6月号)
戦後まで健在だったようだが、老齢の為に戦時中には一線を退いた模様。
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