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花魁の如し・桃中軒薄雲太夫
人 物
桃中軒 薄雲太夫
・本 名 ??
・生没年 ??~??
・出身地 大阪
来 歴
桃中軒薄雲太夫は戦前活躍した女流浪曲師。太夫と称したように面妖な風貌とあでやかな節まわしで人気を博した。「桃中軒」というものの、桃中軒雲右衛門の弟子ではなく、元は河内音頭の踊子である。
経歴は『朝日新聞』(1912年6月24日号)の「不気味な町25」に僅かであるが出ている。
六区の大勝館に出演して居る女浪花節語の薄雲太夫は大阪近在の生れである、最初はあの地方で流行つてゐた「河内音頭」の踊り子で、彼方此方と渡り歩いて居るうちに「うかれ節」語りの京山大多福と云ふ旅芸人に見出されて浪花節を仕込まれた、其当時では女の浪花節語りと云ふのが可なりに人の好奇心をそそつたものと見えて、田舎廻りの色褪た仲間に賑しい色彩を添へた、之も早くも見て取つた旅芸人の剣舞師佐藤は或る田舎町で落合つた折に、甘く手に入れて了つた。
昨日の浪花節語は今日の女剣舞師と早変して相変らず旅を稼いで居る内に、不図したことから、之も旅先で出遭つた剣舞師の臼井某と恋に落ちた、而もジプシー式に猛烈なる恋であつた。
大勝館が此女を見出して流行の女浪花節に仕立てやうとした時、臼井は別の町で興行して居た、折はよしとて一旦手を切った佐藤が自分の妻なりと称して大勝館に其女を売込む約束を結んだ。
この後、薄雲太夫の夫として売り込みをかけた佐藤は、薄雲に拒絶される。これに怒った小指を切って薄雲太夫に復縁を迫り、あわや喧嘩になりかけたところを浅草の親分に助けられ、小指の代金を50円支払った――というのだから凄まじい話である。
師匠の大多福は京山派の浪曲師で、当人はそこまで売れなかったものの、京山福造という売れっ子を輩出した芸人である。
明治末に上京し、無声映画の余興として出演するようになる。「桃中軒薄雲太夫」と名乗るが雲右衛門と関係があるわけではなかった。
当時、映画そのものが短く弁士という稼業も発展途上だった事もあって、各映画館は上演の合間にアトラクションと称して舞踊や浪曲を入れて観客誘致を狙っていた。
桃中軒団菊、北海ピリカなどがそのいい例であろう。そのため彼女たちは余り寄席には出ず、映画館や巡業といったアトラクション主体の仕事が多かった。それを追えないから大変である。
1914年春、広沢夏菊と共に朝鮮巡業。『朝鮮新聞』(4月2日号)に、
▲寿館 東京大阪其他に於て娘浪花節の元祖と謳はれたる廣澤夏菊は開演以来毎夜大入にて以外の盛況を呈し居れるが一行中吉田大和の滑稽読物を始め薄雲太夫の美声ぶりは聴衆を唸らせ居れり
相応の売れっ子であったが、意地汚い処もあったらしく、梅中軒鶯童『浪曲旅芸人』の中では、散々にいじめられ、金を巻き上げられた旨が書かれている。太夫元と絡んで権威をもつので色々と賛否はあったと聞く。
桃中軒薄雲太夫という、花魁のような名前の女流 浪花節が大阪に現われた。
浪花節ブームにあおられ て現われた新人群、津田清美や高山如雪、山川八道、パトロンが鼈甲斎虎丸先生の支配人辻松緑氏、虎丸先生の夫人が大阪広沢館の雑用宿をやっている京山始メ(初代花丸)の娘かめ、芸名ひさご、その名曲は東西を通じて第一人者とうたわれ、虎丸の名声はこの名曲師に依るところ甚だ多しと聞えていた。辻松緑氏はそのかめ女の実弟である。
辻氏の依頼もあって、私と同様若丸師の渡米で職場を失った飯田松次郎氏が、この薄雲太夫を中心に九州方面へ巡業に出ようという計画、私に誘いが来て、救われた思いで同座した。九州へ出る試験として大和高田の弁天座で薄雲太夫を始め、京山円嬢(後の小円嬢) 吉田広近、京山みどり、広沢万菊など女流中堅を集め、男性は私一人が参加して開演。
神戸大正座で菊春円吉の合同興行の楽屋を訪ずれた時、円吉師の門人で用使いをしていた小娘がこの円嬢だった。僅かの月日でいま合同一方の座長格として看板を並べている。落日の如き私自分を頼り見て、恥かしいより悲しかった。
高田の興行が終ったあと、飯田氏が九州行きの準備を進めている間、円嬢の父和田亀太郎に頼まれて、彼女の郷里である紀州和歌浦からその付近を数日手伝って飯田氏のもとへ戻り、九月一日を初日に九州への旅、 これから九州二度目の御難という幕になる。
九州と聞けば、空怖ろしい記憶がよみがえってくる。 秋斎との合同で旅した九州から引続いて石州浜田、雪の山路をさすらい迷い、三隅の木賃宿で迎えた正月のわびしい思いをまた繰返すのではあるまいか、この度の九州巡業の首尾をどうあろうかと判断して見ると、明らかに凶と出た。
そのひどさは義侠心溢れた飯田松次郎(京山小円嬢の父)を怒らせる始末であった。最終的には梅中軒鶯童ともう一人の座員(京山円喬)に「あの二人を置いて帰って来い」と言われたという。
「俺は明日の一番で岡山へ立つが、明日は岡山へ着いたとしても金を送る時間はない。明後日伊万里郵便局へ局止めの電報為替で送るから、お前とらア薄雲らに悟られぬように、 そっと金受取って、円喬と二人で岡山へ乗って来い」
「そんな事したら、薄雲や公丸さんが怒りまっせ」
「かまへん、あいつらあんな事言うて、薄雲のやつ、金が無い無いと言うて毎日わしからチビチビせびり取って、相当金は持ってる筈じゃ。公丸のやつも酒じゃ酒じゃと言いながら、半分は飲んでも半分は残して持ってるじゃろう。どっちも質の悪いやつじゃ、あんなやつら放っといて、お前とらだけ乗って来い、ええか」
お人好しの飯田松が、いよいよ腹にすえかねて決心したのだった。
こうした不義理が重なったのか、団菊や女雲右衛門と違って生き残ることはできなかった。
1920年頃に入ると名前が消える。詳しいことは知らない。
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