[random_button label=”他の「ハナシ」を探す” size=”l” color=”indigo”]
人 物
三遊亭 三橘
・本 名 ??
・生没年 ??
・出身地 ??
来 歴
三遊亭三橘は戦前活躍した物真似芸人。元々は初代三遊亭円右門下の落語家であったが、落語よりも雑芸がうまく声色や珍芸の方に転向をしたという。芸よりも奇人・変人として知られた人物だったようだ。
本流の寄席には出ず、色物席などを回っていたせいもあってか、経歴等は謎が残る。わずかに、生前の友人であった漫才師の東喜代駒が書いているのがあるくらいか。『月刊前進座』(1970年9月16日号)の喜代駒の寄稿に、
大正時代の寄席芸人は遊芸稼人の鑑札を受けることになっていた。
税金は二円五十銭だから犬より安い……。地方によっては一円のと ころもあっただけにゼッタイ頭が上がらない。 その上無鑑札のやつもいるから始末にわるい。
下谷竹町に中村歌門の家作に、三遊亭円右の弟子で三橘という芸人がいた。税金の通知がくるとわざわざ区役所まで持っていって納め る。ズボラな男に似合わぬ感心な人だ、役所の人もほめていた。三 橘は税金をためないけど家賃を溜めた。聞いたら大家が催促にこな いからだって……私もこういう大家さんの家を借りればよかった。 後日川崎大師の年男にたのまれて歌門氏彩昇関に話したら、喜代駒 さんなら貸しますよと言われた。
三橘はなんでも区役所に相談に行った。子供が生れて名前を何てつけたらいいでしょう? 大正十三年生れだから十三男にしたまえ、ヘェーそうします。
とある。三遊亭三橘とは、師匠の圓右や兄弟弟子の円歌が名乗ったほどの名跡であった。それが色物に墜ちたというのだから円右などは頭を抱えたものであろう。
関係は不明であるが、やたら東喜代駒と仲が良く、喜代駒が売り出すまでの間行動を共にした。『都新聞』(1924年5月5日号)に、
▲家族慰安會 外神田警察署家族慰安の為め五日正午美倉橋復興倶楽部に、一龍齊貞山、物まね三橘、珍藝、東喜代駒その他出演
とあり、同年6月1日には、
▲東喜代駒 三遊亭三橘は神田松富町十四へ諸演藝に関する事務所を設く
とまで記載されている。喜代駒にマネージメントを受けて仕事を貰っていたようである。
ご遺族の話では「動物の真似とか俳優の声色をやっていた」らしいが、如何せん判然とせず。「ただ面白おかしい物真似芸人がいた」という事を喜代駒の記事から知り得るのみである。
[random_button label=”他の「ハナシ」を探す” size=”l” color=”indigo”]
コメント