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自称三代目雲右衛門・野口洋々
人 物
野口 洋々
・本 名 野口 一郎
・生没年 1901年~1964年10月16日
・出身地 佐世保
来 歴
野口洋々は戦前戦後活躍した浪曲師。桃中軒雲右衛門の末弟子で「神童子」といったが「野口洋々」と改名。20年以上これで活躍していたが、戦後3代目雲右衛門を名乗り、活躍をした。
『浪曲番付昭和34年度版』の附録で語ったところによると、郷里佐世保に雲右衛門が来た際に入門。少年浪曲師としなって、「桃中軒神童子」となづけられる。
師匠に随行していた関係からか、地方巡業が多く、あまり中央には出ない人であった。一方、師匠の花々しいおこぼれに預かった関係で、飢える事はなかった。
ただ、修業は厳しく、板の間に坐らされ、眠ることを許されずに師匠の世話をしたり、人力車に乗って颯爽と駈ける師匠の後を走って追うなど苦労も多かった。
後年、「野口洋々」と改名し、中央にも出演するようになる。師匠譲りの「義士伝」の他、「ジャンバルジャン」「ああ満洲」といった文芸物・軍事物なんでも読んだ。
雲右衛門を意識したような悠然たる節まわしと甲高い美声を売りにした。相応の実力もあったが、遂に大看板にはならなかった。
1935年8月、ニットーレコードより「ああ満洲」を発売。これは日文研のサイトで聞く事が出来る。
1935年9月、ニットーレコードより「赤垣源蔵徳利の別れ」を発売。
1935年10月、ニットーレコードより「山鹿護送」を発売。
レコードに吹き込むチャンスを持ちながらも遂にモノにする事は出来なかった。
1941年の番付では「中立派真打」という変な肩書で番付に入れられている。
この頃、雲右衛門の妻・西岡久を引き取り、養育し始める。未亡人から「雲右衛門を名乗っていい」と言われた関係から、1941年に雲右衛門を襲名。ただしこの襲名に異議を唱える者も多く、「野口洋々」「雲右衛門」の看板を使い分けた。
戦後、雲右衛門を本格的に名乗るようになるが、やはり総スカンのきらいがあり、長らく番付にも名前を出してもらえない不遇さを味わっている。自業自得といえばそれまでだが――
戦後は戦争遺族や戦犯遺族の救済を思い立ったらしく、慰問に力を入れた。唯二郎『実録浪曲史』の中に――
巣鴨プリズンの収容者は総数でおよそ四千名を超える。うち亡くなられた方は刑死六十名・病死三十七名自殺三名の計百名だった。二十六年五月と六月の二回、前述の『巣鴨新聞』に地方からの便りとして、「戦犯浪曲」と題する記事がある。
……劇場の内外には〈戦没者遺家族を救済せよ!〉と大書きし、舞台の右手には刑死者の名前を書き連ね、祭壇には花やローソク・線香が供えられている。通常の会場とは異った雰囲気である。入場料は遺家族招待券で三十円。立錐の余地もない。演題は「平和の発見 由利中尉とその母」であった……。
と。出演者の名前は記してないが三代目桃中軒雲右衛門である。この演題は二十一年四月、絞首刑第一号となった大牟田俘虜収容所長・元陸軍中尉由利敬とその母の記録である。一人息子を軍国少年として育てあげた母親の嘆きを主に、巣鴨プリズン初代教誨師花山信勝の著書により紹介された。由利敬の故郷、五島列島の福江島公民館でも上演されている。
1953年の番付では「三代目桃中軒雲右衛門」とやっと認知されている。
1955年の番付では「元老」としてランクイン。
1955年10月28日、国際スタジアム(国技館)で三代目雲右衛門独演会と銘打って独演会を決行。会場の周りに「ラジオでは絶対に聞かれぬ名調」と派手なビラを貼って観客の度肝を抜いた。
1961年の番付では「横綱 桃中軒雲右衛門」としてランクイン。
晩年は四谷に居を構えていたそうである。
1962年4月、越塚義一が入門。「桃中軒天才坊」と名付け、巡業に連れ回した。この人は後年三升家はじめと名乗り、浪曲三味線をしていた他、吾妻はじめの名義でレコードエッセイも書いていた。
墓は下谷感応寺にあるがどうもカタチだけらしく本当の墓及び遺骨はどこにあるのか不明な状態だと聞く。
弟子の三升家はじめ氏も2019年頃に亡くなり、この事をわかる人がいなくなってしまった。
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