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浮かれ節から浪花節へ・武蔵家嘉市(二代目)
人 物
武蔵家 嘉市
・本 名 犬飼 亀吉
・生没年 1874年3月3日~1928年?
・出身地 愛知県
来 歴
二代目武蔵家嘉市は浪花節黎明期に活躍した人物。父の「武蔵家嘉市」の名を受け継ぎながら、上京。浪花亭峰吉、一心亭辰雄などと並び称される名人として君臨した。
本名・生年は『芸人名簿』より割り出した。
父親は東海筋で人気のあった浮かれ節の武蔵家嘉市(犬飼嘉市)。弟子を多く抱え、この筋からは港家大夢(武蔵家文蝶の弟子)が出ている。
幼い頃より父について芸を習い、旅から旅への日々を過ごした模様であるが、成人になる前に父が死去。「武蔵家嘉市」を襲名し、残された母と共に放浪の日々を過ごした。
明治28年(1895)頃、上京。当時勃興し始めていた浪花節席に出るようになる。
ただ、当時はすごい冷遇されていたそうで、一晩で十銭も稼げず母と共に泣いた――などという悲哀もあった。その中で浪花節の向上を志し、旧作だけではなく、新作を読むようになったという。
こうした遍歴のせいもあるのか、一部文献では父の嘉市とこの嘉市がごちゃ混ぜになっていることがあり、注意が必要であったりする。
愛嬌のある顔や節を武器に、独特の芸を構築。一躍東京の浪花節界の人気者として台頭する事となった。
その新しい目線や芸のうまさは、辛口の評論家や通人からも慕われたそうで、『天鼓』(1906年2月号)掲載の「藝苑白人評」の中で、
むさし家嘉市 ▲浪花節なるもの素と下層社会を相手に発展せしが為め、その所演の材料、用語等亦おのづから此範囲を脱する能はざるの憾みなしとせず、其動もすれば世に卑まれ、疎外せられんとする、一に是に因す、然らば浪花節の改良策として、取材範囲の拡張、新用語の研究等は最も急を要するものならざる可らず、此点より見て、嘉市が常に新刊の小説類を取つて之を演じ、その用語の明治式、むしろ新聞的熟語を取れること、悪からざる用意といふべし、改良には未た程遠しと雖ども、其旧憤を脱し得たるは兎に角多とするに足れり。
彼れの主として席に演ずるは、弦斎の「血の涙」、「小猫」、「伝書鳩」、楓村居士の「橘英男」等にして、よくも之を老人小児又は労働者にまで、飽かざ聞かしむると感嘆の外なし。又その用語概して卑陋ならざるは喜ぶべし。時として随分際どき処まで侵入することなきに非るも、さして醜悪の感を与へざるは、新熟語を使用すること頗る巧みに、假令ば『将校斥侯を放つて障子の穴から敵の参謀本部を偵察さすれば、軍使たる此家の女将は切りに○子に向って開城の勧告中……』といふが如く、殆んど之を符牒化するが為なり。
然れども彼れ得意の読み物は、必ずしも是等新版物にあらずして、天一坊、曾我等也と、われ去月吹抜き亭に於て、特に曾我物語命請いの一條を聴く、東京に講釈師多しと雖ども、能く之に及ぶもの蓋しタントは居ざるべし。天一坊は自ら称して十八番となせるもの、其巧妙想像するに難からず。
特に彼れが一本調子に唄ひ出す「愁ひ節」の悲愴にして余韻の尽きざる処に一種言はれぬ妙味ある、方に天下一品也。嘉市は意気の子也、気に入らねば如何に席亭の利を以て之を招くあるも頑として応ぜず、嘗て下谷小松亭に出演するや、其演時間の短きの故を以て席主暗に之を難ず、彼れ紛然として曰く、われには数分間の高座にも猶聴衆をして不満ならしめざるの自信ありと、復た此席に出でず。頃者仲裁するものありてやゝ解けたりと雖ども、之に類する逸事は殆ど快挙に遑あらざること、彼れ出演を承諾せざる席亭、数十に上るに徴しても明か也。
彼れ名古屋に生れ、父の志と藝名を継ぎて東京に出で、刻苦精勤、絃に堪能なりし母と共に牛込より深川への掛け持ちも、得る所母子合して僅かに十銭を出でず、相抱きて悲泣するもの数年、猶志を改むるなく、終に今日あるに至れり、彼や実に芸界の猛者と謂ふ可し。
と猛烈に激賞されている。村井弦斎や町田柳塘の小説を既に浪曲化していたというのはすごい。その早さは、浪花亭峰吉などよりも早かったのではないだろうか。
1908年2月、浪花亭峰吉、一心亭辰雄と共に「三人研究会」を結成。各寄席に三枚看板で出演し、古典・新作の勉強会を行った。
1912年10月1日発行の『浪花節倶楽部』の『寄席行脚』の中でも、
八の字「さうだねえ……時に武蔵家は相変らず、巧妙もんだねえ、僕は彼の人が高座に現はれると、自分までが何時しか莞爾せずにはゐられない。自然の愛嬌を斯くまで賦与された嘉市君は確かに浪界の幸福児だねえ」
色「ネタの運び方に独特の妙があって、口を衝いて出るケレン、警句は、其場々々の頓才で溢れ来るらしい、決して予め考へて置いたものではないよ、そして呼吸がついて行く。」
八「実際だ、して見ると無類だねえ、天下一品だえね」
色「君は又無暗に賛成するねえ、併し全くの所天下一品と云つても一溢美ではあるまい。御座敷などには持って来いだねえ。節調も上品だし……」
とこれまた激賞されている。
後年、新内の名人として知られた岡本文弥はこの武蔵家嘉市を愛していたそうで、晩年の随筆や座談に名前が出てたりする。
人間的にも優れていたそうで、当時駆け出しだった春日清鶴や木村友忠にもネタや勉強の場を与えたりして、慕われたという。
『浪曲番付1959年度版』の解説によると「昭和3年没」との由。
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