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品のある浪曲・八洲天舟
人 物
・本 名 堀江 源助
・生没年 1900年5月?~1970年5月2日
・出身地 佐賀県 松浦郡
来 歴
八洲天舟は戦前戦後活躍した浪曲師。名人として謳われた八州東天の弟子で、師匠譲りの芸題と節で人気を集めた。戦前は青年横綱として名声をほしいままにしたという。
経歴は、『東西浪界写真名鑑』に詳しい。
本 名 堀江源助
生年月日 明治三十八年五月
師 匠 八洲東天
藝(十八番)三日月次郎吉、森の石松
趣 味 観劇、スポーツ
初 舞 台 十七才、三ノ宮雑居亭
ただ、墓碑銘には「1970年5月2日、70歳没」とあるので、つじつまが合わない。年齢詐称をしていたのだろうか。
10代にして師匠に入門。当時、師匠は「芙蓉軒東天」を名乗っていたため、天舟も「芙蓉軒某」と名乗っていたらしい。
後年、師匠が「八洲館」という寄席を開場したのを機に「八洲東天」と改名。自身も「八洲天舟」と改名した。
芝清之『浪曲人物史』によると、妻は「桃中軒桃奴」という人物で名古屋の大御所・吉川小虎丸の実子であった。
この子を、桃中軒桃子が養女兼弟子として引き取り養育。年頃になったのを見計らって、天舟と結婚をさせたという。
ちなみにこの結婚に際して、天舟は桃子の父であった吉川善確の養子となって跡を継いだという。滅茶苦茶な系図である。
師匠譲りの侠客物を得意とし『三日月次郎吉』『次郎長伝』『吉原百人斬り』などの血気盛んな作品で大阪や名古屋の寄席をにぎわせた。
一方で、些か覇気がなく、兄弟弟子の東郷と比べると華がない所があったらしく、遂に大看板になれなかったのは残念であった。
また、妻の関係から名古屋を拠点にしていたのも大人気を獲得しきれなかった一因なのではないか。
それでも関西・名古屋では手堅い人気があったそうで、ラジオやレコード吹込みを積極的に行っている。
1928年5月1日~5日、名古屋放送に出演し、『相馬大作』ともう一作、連続放送を行った。
1928年10月15~18日、名古屋放送に出演し、『出世高虎』『出世の大杯』『火の玉小僧慶助』『西村権四郎』を放送している。
1929年6月26~28日、名古屋放送に出演し、『清水次郎長伝』を連続放送。
1930年8月27~30日、名古屋放送に出演し、『俵星玄蕃』『忠僕直助』『村上喜剣』『三日月次郎吉』を口演。
1931年6月20~23日、名古屋放送に出演し、『清水次郎長伝』を連続放送を再口演。
1931年12月23~25日、名古屋放送に出演し、『出世の大盃』を連続放送。
1932年7月19日、JOBKに出演し、『藤堂高虎』を放送。
1933年1月24~26日、名古屋放送に出演し、『佐野次郎左衛門』を連続放送。
戦後も活躍し、手堅い浪曲で名古屋や大阪で活躍した。時折、古老として放送にも出ていたようである。
1961年の『全日本浪曲技芸士番付』では「独流」としてランクインしている。
1970年5月、70歳で没。墓は西尾市にあるという。
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