関東大震災の悲劇・吉田久菊

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関東大震災の悲劇・吉田久菊

 人 物

 吉田よしだ 久菊ひさぎく
 ・本 名 井出 知男
 ・生没年 1891年?~1923年9月1日
 ・出身地 大阪?

 来 歴

 吉田久菊は戦前活躍した浪曲師。浪曲の鼻祖的存在である初代吉田久丸の倅に生れ、天才的な芸と美声で一世を風靡し、将来を嘱望されたが、横浜公演中に関東大震災に遭遇。建物の下敷きとなり、足をのこぎりで切断を試みるも失敗。罹災死を遂げた。

 父は吉田派の始祖である吉田音丸の弟子で、「吉田久丸」という。浮かれ節時代からの芸人で、関西を中心に人気があった。兄弟弟子の奈良丸と共に吉田一門を形成し、関西の一流を作った。

 この人の兄息子が、吉田久春といい、父の跡を継いで「吉田久丸」と名乗った。明治末に、初代久丸は一線を退き、「吉川席」という浪曲小屋を経営していたという。

 浪曲師一家に育つも、下の子であった知男は学業を望まれ、当時としては珍しく中学まで進学している。

 しかし、18歳の時にふとした事から中学を止めて浪曲師になってしまった。『芸人名簿』によると、

 氏は十八才の秋十月二十六日迄中学登校突然にして兄二世久丸一行中の者病気欠席為に氏は補助として淡路洲本弁天座で初高座をなせしが、大好評を博せし為め退学浪界に入り得意の読物は幕末志士傳、御殿山焼打、高杉晋作、忍ぶ面影、快傑傳

 という。父と兄は驚いたそうであるが、この子に「吉田久菊」と名付け舞台にあげるようになった。

 その天才ぶりは素晴らしく、一年経つか経たないかで既に真打級の芸を持っていたという。

 1911年9月には一枚看板で東京に呼ばれ、当時としては名門の寄席であった牛込高等演芸館に出演。『都新聞』(9月28日号)によると、

初上り吉田久菊
◇同人は大阪吉田久丸の倅として、幼少より久丸所有の吉川席に奈良丸、小圓、若丸など出席し居る身振り口真似を覚え、本年十九才の生年鳴れど、大看板として九州四国中国を巡業し、今回上京して一日午後五時より牛込高等演芸館に現る。

 とにかく声が良く、雲右衛門とも奈良丸とも誰にもつかない独自の甘い節回しで人気を集めた。その人気たるや、吉田美芳、吉田一若をもしのぐものだったそうで、多くの若手が真似をした。

 特に影響を受けたのが、久菊の前読みをしていた寿々木米若で、彼は元々高めの関東節を唸っていたが、久菊の甘い節に影響を受け、わざわざ低調子に変更。自前の低音の魅力を生かした「米若節」を開拓し、一時代を築く事となる。

 梅中軒鶯童も『浪曲旅芸人』の中で、

 久菊・美芳、いずれも劣らぬ線の美しい節は聴いていて恍惚としていい気、そんな記憶がどこやらに少し残っている。久菊節といって一時若連中の間にもてはやされたものだ。米若君の名調、これはたしかに久菊を土台にして生まれた節だと私は思う。御本人米若君はそう言っていないそうだが、ひっかけて揺ってあげる節調、あれは久菊以前に誰人にも無かった独特の節調だから、米若節が久菊節から生まれたといっても大きな誤まりではないと思う。いわゆる現代調、近代調といわれる節調、リズムには久菊の匂いがどこか感じられる。

 とまでいっている。相当に新しい、素晴らしいセンスを持っていたのだろう。

 ライバルの美芳、一若は奈良丸系統の『忠臣蔵』を得意としたというが、久菊は新作、近代的な作品を得意としたという。「軍事探偵橘英夫」「血染めの地図」「広瀬中佐」「幕末志士」などといった新物読みで人気を集めたという。

 20代で大看板になった久菊は、東西はおろか全国を飛び回る忙しい日々を送ったという。兎に角芸がうまい為にどこへ行っても外れはなく、名声は上がり続けた。

 1923年9月1日、関西の天光軒満月、吉川島国、吉川小龍、寿々木米若などと共に手を組んで横浜寿亭で「若手競演会」に出演。天光軒満月が舞台に上がろうという時に凄まじい揺れが襲った。

 関東大震災である。

 耐震工事などほとんどない当時、寿亭はひとたまりもなく潰れ、満月も小龍も重傷を負った。何とか救出してもらい、近くの保護施設にまで運んでもらえた。

 一方、久菊は避難寸前に、倒れてきた梁に足が巻き込まれ、動けなくなってしまった。兄の久丸は、なんとかしようとしたが梁は動かなかった。

 震災の影響で上がった火事が近づく中、久菊は「のこぎりで足を切ってくれ」と頼み、久丸はそれを実行したが、なまくらなのこぎりでそれが切れるはずもなく、久丸は苦悶の内に出血多量で倒れる。近づく炎から逃げるべく久丸は、久菊を泣く泣く見捨てて、避難したという。

 久菊はその後の火災で跡形もなく焼かれ、罹災死を遂げた。

 この様子は『大阪朝日新聞』(1923年9月9日号)に詳しく掲載されている。

弟の足を鋸で断る 浪花節吉田久菊の惨話 
遭難帰阪した大阪の落語家桂小文治は惨況を語る「落語家は針ほどもないことを棒ほどに申上げるのが商売だが今度のことばかりは如何に身振手振をしても迚も申上げられません、倒壊した神田の家を逃げ出して上野公園に避難したが途中女房を脊負った男の後から血がタラタラ流れている、よく見ると十歳位の女の子が坐蒲団に産れたばかりの嬰児を包んで附いてゆく、逃げる途中で出産したのだ、茲に又最も悲惨な話は浪花節語り吉田久丸兄弟です、家屋崩潰と一緒に弟久菊が梁の下敷となり右足を挟まれてどうすることも出来ません、兄は近所に飛んで行って鋸を借て来てゴリゴリ梁を切りはじめた時、早くも一面の火となったので両人は狂気のようになり弟は俺の足を切れるかという、それでは自分で切るから鋸を渡せという、そこで両人は泣き崩れたが襲い来る猛火に今はこれまでと兄は弟の右股を鋸引きにして半まで斬ったが弟久菊は出血のため遂に死んだ、兄は附近の交番へ行ったが巡査がいないので無断で筆墨を借りて弟の姓名住所を書いて死体の懐中に納め泣く泣く死体に別れを告げ上野に走って全きを伝ました、全く想像以上の惨話です」

 生々しい事この上ない話である。この震災によって、久菊は夭折。残された兄は吉田久丸の名跡を守りながら、昭和初期まで細々と活躍した。久丸系統の芸名が久菊の死によって断絶したのは惜しい。

 鶯童は彼の死を惜しみ、『浪曲旅芸人』の中で、

もし彼になお十年、二十年の命を与えられていたとすれば、浪界の動向が余程変っていたであろう事は間違いない。

 とまで言っている。

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