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浪界新派無敵の京山水月
人 物
・本 名 丹羽 寅一
・生没年 1894年2月3日~1935年
・出身地 岡山県 妹尾村
来 歴
京山水月は、戦前活躍した浪曲師。京山若丸門下の新鋭で、師匠譲りの新作・明治物を得意として活躍し、次期幹部を期待されたが大成する前に妻子を残して夭折したという。
若丸門下の一異彩、現自売り出しの花形は明治二七年二月三日産る、芸術は先天的に具はり、性質は負嫌い、演台に立ちては五分も透なく、所謂人に取り入り上手遠からず大したものになるであらうといふ。生地は岡山県都窪郡妹尾村三〇九で、十二の年若丸の門に入り若清と名乗り師若丸の膝元にて日夜勉強し十六に師に別れ水月と改め初めて名古屋歌舞伎座に少年座長として旗揚をなし全く好評を博し以来各地を巡業し、大阪に帰る。
1906年、京山若丸に入門し、京山若清。師匠の一座で芸を磨き、独立して「京山水月」と改名した。
1919年には、朝鮮を巡業しているが、そのときのキャッチフレーズが「浪界新派無敵の京山水月」。地方巡業ならではの凄まじい命名である。
得意演目は師匠譲りの『乃木大将』『西郷隆盛』の他、『二人令嬢』『西村家の波乱』など新物を得意として読んだ。
独り立ちして暫くした後、女流浪曲の岡田千代子と結婚。『浪曲旅芸人』に、
岡田千代子は後に京山水月と結婚したが死別して東へ行き、再婚した春日野越後とも死別して、現在は佐渡にいる。
とある。
1923年頃、一女を授かった。この子は後年「青柳つばめ」と名乗り、母と二枚看板で人気を集め、ハワイ巡業に招聘されるほどの人気を集めたが、ハワイで急病に倒れ、客死した。
京山派の中堅として地道に稼いでいたが、1935年初頭に倒れ、夭折した。この事は『マウイ新聞』(1935年5月10日号)に詳しく書いてある。
同女は同情すべき岡田千代子女 此の一座で最も同情すべきは岡田千代子女史である同女は日本出発間際に夫君の喪に会したが契約上やむなく涙をのんで渡布したと聞いてをるがさらに気の毒なのは一行の花形であり岡田女史の実子であつた青柳ツバメ嬢がホノルルへ来て間もなく病死した事である重ね/\の不幸に彼女はなく似も泣かれぬ破目に陥ったので彼女は終に亡夫と愛児の霊を慰めるため三人分の働きをなすの覚悟を定め自らも死を決して演壇に起つとの悲壮極まる決心のもとに涙をのんで出演しつつある由なれば……
『浪曲旅芸人』の付録の系図では「大正10没」とあるのだが、上の記事から考えるに「昭和10没」の間違いではないだろうか。後添えとなった春日野越後は、このハワイ巡業に参加しており、巡業をきっかけに縁付いたと考えるのが妥当な線である。
二代目水月がいたとするならばまた別であるが――
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