イライラの芸豪・京山恭一

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イライラの芸豪・京山恭一

 人 物

 京山 恭一きょういち
 ・本 名 〆野 菊三郎
 ・生没年 1860年代?~1936年
 ・出身地 和歌山県 有田郡

 来 歴

 京山恭一は戦前活躍した浪曲師。浪曲の実演よりも育成と創作の才に優れ、若手の育成やお目付け役として活躍を続けた。日吉川一門が得意とした「薮井玄以」は彼の創作である。議員の中村巍は実の弟にあたる。

 出身地は中村巍と同じであり、育ちも大体同じだという。中村巍と兄弟であった話は『浪曲旅芸人』の中に出ている。曰く「長年外国公使として外務省に勤め、一時は外務大臣候補にも指名された中村巍氏は、恭一さんの実弟である」。

 実際、中村巍の経歴を調べてみると「和歌山県有田郡湯浅在の農家・〆野弥七の息子」とある。恭一の本名は「〆野菊三郎」なので、この話は間違いではないだろう。本名は『東京明覧』から割り出した。

 中村巍は明治6年生れである事から、恭一も1860年代の生れであることが推測できる(相当の年の差が無ければ)。

 家は貧乏で、裕福でなかったという。そのため、中村巍も幼い頃から養子に出され苦労を重ねた。兄弟なのに姓が違うのはそうした事情をはらんでいる事だろう。

 百姓暮らしに辟易したのか、実家を飛び出し、二代目京山恭安斎の門下に入った。後年、関西浪曲界を牛耳った若丸や小円にも対等に口が利けたところから、入門は相当早かった模様。

 どういう関係か知らないが、大師匠の初代京山恭安斎とは親類関係だったらしく(嫁さんが縁者?)、二代目からは信頼を受ける事となった。後年「初万の部屋頭」(初万とは二代目の事)とあだ名されるようになったのは、こうした関係もあったらしい。

 鶯童は「恭一といえば畠山の最古参であるばかりでなく、元祖恭安斎以来の縁故もあり、恭安斎二代の畠山伯州翁でさえ、いささか遠慮されるほどだから」とその権威の凄さを論じている。

 凄まじい芸の持主ではなかったが、不思議な愛嬌と創作の才能があったそうで、主にけれん読みとして名を挙げたという。「薮井玄以」を筆頭に「左甚五郎」「水戸黄門」等の型を完成させ、後世に伝えたのはデカい。

 このケレン読みの伝統は、弟子の京山吾一、弟弟子の日吉川秋水によって繋げられ、今に至る。

 1900年頃、東京にのぼり、東京の寄席に出演するようになった。東京では幹部として認められ、売り出す前の雲右衛門や円車とも同座した事がある。普通に浪花亭駒吉や早川辰燕と共演している所を見ると、相当な扱いだったのだろう。

 明治末に帰郷し、師匠の二代目恭安斎の率いる若手育成所「畠山部屋」の大目付として君臨する事となった。この部屋から日吉川秋水、京山吾一、梅中軒鶯童などが出ている。

 その部屋の中でも恭一は古老として恐れられ、年中癇癪をぶちまけていた所から「イライラの恭一」と陰口を叩かれる程であった。『浪曲旅芸人』に、

 このおじさん癖で口が悪いときているから堪まらない、一つ間違うと雷が落ちる。然し悪意の無い人で、鳴りちらしているかと思うと、あとはケロリとしている。でも、かなり意地の悪いところもあって、ある夜私が木津川の鱸の席の切り席でお客に不人気、がっかりして天王寺へ帰って来ると、時間が遅くなったので台所は綺麗に片付いていて、飯も汁も無い、小伯に文句を言ってるところへ恭一おじ さんが現われて、
「何言うてんのや、お前らみたいな芸で三度も飯食うのは勿体ないわ、一ぺんぐらい食わいでも当り前や、罰あたりめ」
 私はこれに一言もなかった。

 と、その凄まじさが紹介されている。誰彼にもこういう扱いだったらしいが、雲右衛門にはなぜか頭が上がらず、ヘコヘコしていたというのだからおかしい。

 部屋勤めをしながら浪曲の舞台に出て相変わらずの人気を博していたが、後年喉を壊し引退。「四海春秋」の名前で講談師となったらしい。『浪曲旅芸人』によると、

 恭一おじさんの事だが、後には節がやれなくなって、四海春秋の名で講談をやっていたが、晩年は和歌山市の遊楽座を経営して、相変らずイライラしていた。

 との由。『浪曲旅芸人』の系図を見ると、1936年没との由。

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