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関西浪曲界の古老・浪花一右衛門
人 物
浪花 一右衛門
・本 名 平野 筆一
・生没年 1887年2月~1930年代
・出身地 大阪 枚方
来 歴
浪花一右衛門は戦前の関西浪曲界で活躍した浪曲師。父が浪花節黎明期に活躍した浪花萬吉という関係から、明治30年代には既に浪曲界の一枚看板として活躍。天才の誉れをほしいままにした。
経歴は『浪花節名鑑』にわずかであるが出ている。
氏は浪花節勃興当時声明を轟かした故浪花萬吉(通称萬吉)氏の嫡男なり、明治廿年二月現住宅に生誕す、幼くして芸人たらんと志し、初舞台は東都国華座。
父の萬吉は浮かれ節から、浪花節に転換する過渡期に活躍した人物で、相応の実力と人気を持っていたという。その息子に生まれた一右衛門は幼くして父の公演や旅興行についていき、耳学問で覚えてしまった。
10歳になるかどうかで既に高座に立ち、明治30年代では既に一枚看板として相応の人気を集めていた。父の萬吉は早くに亡くなり、一右衛門は独立独歩で芸を磨いた。
その中で手本としたのが桃中軒雲右衛門で、他流派であるにもかかわらず、雲右衛門を熱心に追っかけ、その呼吸やネタを会得した。そうした関係から「忠臣蔵」「佐倉義民伝」など雲系のネタが多かったという。
これは後年の資料でも語られている。『読売新聞』(1928年5月6日号)を覗くと、
雲右衛門張りの語り口 一右衛門さん得意の佐倉義民伝
けふのお昼の浪花節は浪花一右衛門さん口演の『佐倉義民伝の内甚兵衛渡し』の読み切り一席である。一右衛門さんは浪花節が流行仕出した当時盛んに売つた浪花萬吉さんの実子で父が浪花節語りであるせいか、自然と聞き覚えで今日を築き上げたと言はれてゐる。故桃中軒雲右衛門に私淑して語り口も雲の長髪時代のそっくりだと評されてゐる。
とある。
1900年代から親友派に出入りし、既に一枚看板として鳴らしていた。下手な大御所よりも芸歴が上で、キャリアもあったのだからおかしい。
1909年8月1日より、京都大虎座で「新派浪花節」と称して公演。その前には末廣座で長らく口演していたという。「大名五郎蔵」「佐倉義民伝」「義士銘々伝」を口演している。
『日布時事』(1912年9月9日号)の浪曲番付を見ると、東25枚目に置かれている。同順位には、岡本鶴円、桃中軒星右衛門などがいる。
1914年1月22、23日、親友派が開催した「南座浪花節大会」の一員として出席。出演者は岡本鶴治、中川伊勢吉、藤川友春、鼈甲斎虎丸、京山春駒、吉田小奈良、岡本梅寿軒、宮川松安、日吉川秋水、広沢菊春、港家扇蝶、岡本鶴圓など(『近代歌舞伎年表京都編』)。
1919年、親友派の総会で評議員に選出される。
1925年10月、日東レコード「横川勘平」を発売。
1926年2月、オリエント「高田馬場の仇討」を発売。
1926年4月、ウオルドレコードより「佐倉義民伝」を発売。
1926年6月、日東レコード「義士外伝・山岡お龍の間者」を発売。
1926年7月、日東レコードより「白井権八小紫」を発売。
1926年9月、日東レコードより「東叡山宗五郎」を発売。
1926年11月1日より5日間、「千葉三郎兵衛」「大石の生い立ち」「大石御薬献上」「山鹿護送」「義民伝」を連続放送。
1927年4月、ニットーレコードより「山鹿護送」を発売。
1927年12月16日から四日間、名古屋放送局より「佐倉義民伝」を通し公演。
1928年5月6日、JOAKに赴いて「佐倉義民伝」を放送。珍しい東京公演となった。
1931年12月、JOBKに出演し「岡野金右ヱ門」を放送したというが、なぜか浪曲放送リストには記載がない。
1930年代後半の番付を見ると名前が出てこないので、1930年代中期に亡くなったとみるべきか。夭折である。
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