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中京浪曲界の幹部・酒井金時
人 物
酒井 金時
・本 名 小坂井 力太郎
・生没年 1897年?3月~1950年代?
・出身地 京都
来 歴
酒井金時は戦前活躍した浪曲師。元々は京山恭為の門人、続いて名古屋の都金時に請われて婿入りし、都金時を襲名。その後で酒井雲一門の客分になったという変わり種であった。インテリ的な浪曲を演じた他、浮世草子や軍事物語を浪曲にして演じるなど特異な人物としても知られた。
経歴は『東西浪界写真名鑑』に詳しい。
本 名 小坂井力太郎
生年月日 明治三十年八月
自 宅 愛知県甚目寺町
師 匠 酒井雲
初入門年月 二十一才
藝(十八番)浮世草紙
趣 味 万才、野球
初 舞 台 大阪、愛進館
一方、長らく住んでいた『甚目寺町史』には郷土の偉人として以下のように取り上げられている。
酒井金時 本名小坂井力太郎。大字甚目寺字郷浦の人。産は京都。明治二十四年笠原仁松の四男として出生。十七歳のとき大阪の親友派巨頭京山恭為の門に入り、満三年を修業、京山為之助と称して演芸界の人となった。のち女流都金時に懇望され、その家を嗣いで都秋広と改名した。大正十一年横浜市寿亭で、全国浪曲界の耆宿を伍して三日間興行。これで一躍名声をあげ、続いて桃中軒雲月のモタレとなった。大正十二年都金時を襲名し、さらに昭和二年小坂井の小の字を除いて酒井と改め一家をなした。たまたま文芸浪曲と銘打って酒井雲師が上京の途次、酒井金時の立幟をみていぶかり、会見を申しこんで会談したのを機に、爾来酒井雲の客将となって重きをなした。浪曲界の巨頭としての師の存在は大きく、内地はもちろん北は樺太、北海道、南は台湾、西は朝鮮から遠く満洲、中国各地をも数回巡業して、錆のある美声、老巧な節廻しにに嘖々たる名声を馳せたものであった。
最初の師匠は京山恭為。名人上手に仕込まれただけあってか、相当にできたのだろう。名古屋の浪曲師・都金時に請われて彼女の家族となり、「都金時」を襲名することとなった。此の金時は名古屋・東海近辺では相当に名の知られた人物であったという。
独立後は名古屋に居を構え、同地の寄席や劇場を中心に活躍。中京浪曲界の新栄として売り出した。
元々酒井雲とは縁もゆかりもなく、「酒井」と名乗っていたが、酒井雲とバッタリ鉢合わせをして会談したこと、さらに酒井雲の芸と売れ行きに感心して、酒井一門に参じた、という変わり種であった。
その関係から、酒井雲とは師弟であり、兄弟分という普通の師弟関係ではおさまらない昵懇な仲であったともいう。
師匠譲りの「義士伝」の他、「乃木大将伝」「薮井玄以」「大岡政談」、さらには戦争美談など硬軟自由に読みこなしたという。語り口にユーモアがあり、当人の愛嬌のある風貌もあって、なかなかの人気を博したと聞く。
1927年9月7~9日、名古屋放送に出演し、「乃木大将伝」を三日連続放送。
1928年1月16~20日まで、5日連続で名古屋放送に出演。「大岡政談」の上下、「少年武士道」「武士の娘」「侍の改心」を放送している。
1928年3月、ヒコーキレコードから「乃木将軍と辻占売り」を発売。
1929年9月、ヒコーキレコードから「乃木将軍」を発売。
1930年7月28~31日、名古屋放送へ出演し、「死しても国家へ」「想い出の涙」「熱情の巡査」を放送している。
1931年7月29~30日、名古屋放送へ出演し、「ある日の玄意老」を連続放送。
1933年8月15日、名古屋放送へ出演し、「噫、空閑大隊長」を放送。これは全国中継で流された。
1943年の番付では旧幹部として、満洲日出丸、広沢當昇などと並んでいる。
1944年、三門博一行として酒井金時の名前が確認できる。他の座員は三門薫、東家燕奴、早川勝、青葉茂(『大陸新報』1944年2月16日号)。
1950年の番付には「旧幹部 酒井金時」として紹介されているが、その後は出てこない。死んだか引退したか。
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