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織物問屋の社長となった一府亭南昇
人 物
・本 名 岸和田 徳蔵
・生没年 1864年3月~1930年代?
・出身地 京都
来 歴
一府亭南昇は浪花節黎明期に活躍した浪曲師。元々は行商人であったが浪曲師に転向し、30年近くその道で食ったのち、稼いだお金で織物問屋を開いて成功をおさめたという珍しい人物である。
経歴は『織物要鑑』に詳しい。
岸和田徳蔵氏 氏は京都府加佐郡河守町農岸和田多右衛門氏の次男にして元治元年三月を以て生る、呉服太物洋反物小売商なり、少壮の頃紙蝋燭又は絹糸の行商をなせしが明治十七年頃浪花節語りとなり一府亭南昇と称して各地を巡業し遂に一二の寄席を経営することとなり四十四年現在の東隣に現業を開始し店舗狭溢を告ぐるに至りたるを以て大正二年現所に移転し以て今日に及ぶ
元々行商人であった事から、ある程度の商才や能力はあったと見るべきだろう。
そんな行商の少年が何故浪花節になったのかは判然としない。当時、浪花節は浮かれ節と呼ばれていた時代であり、最下層にある芸であった。収入は投げ銭やご祝儀が中心で流浪の旅に出ては稼ぐ日々であった。
そんな職種になぜ憧れたのか判然としないが、家が貧農で行商をやって居る気安さ――というのもあったのかもしれない。
師匠系は不明であるが、明治30年代には相応の一枚看板だった事を考えると芸はそこそこ行けたようである。
明治末に大阪で寄席を経営し、その収入や自身の出演料などをあわせて、織物屋を始めるようになり、小さな店を開いたという。
その店がうまくいき、彼は浪曲師を廃業。「岸和田徳蔵」の名で実業家となった。
以来、大阪では相応に知られた実業家として堅実の経営を実施。妻と手を取り合って仲よく店を切り盛りしていたという。
1923年9月に発生した関東大震災に際し、関係者と共に義援金を送り、『朝日新聞』に掲載された事がある。
昭和初期、世界を襲った昭和恐慌でも会社をつぶす事なく、経営を続け、1930年代中頃まで名簿や帳簿でその名前を確認することが出来る。
1930年代後半になるとその名前が見えなくなるところから、隠居したか、亡くなったか。
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