夭折の麒麟児・京山円州

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夭折の麒麟児・京山円州

 人 物

 ・本 名 重本 正好
 ・生没年 1898年2月17日~19
37年以降
 ・出身地 香川県 高松市

 来 歴

 京山円州は戦前活躍した浪曲師。天才児としてデビューし、広沢晴海と共に「麒麟児」として謳われた。一時期は日吉川秋水、京山幸枝、梅中軒鶯童などを一蹴してしまうほどの人気ぶり、天才ぶりを見せたが、大幹部になる前に30代で夭折した。

 経歴は、1915年の『浪花節名鑑』に詳しい。

児は明治三十二年讃岐高松市に生る。父は壮士俳優なるが為其の表情等も宜く。十一歳より京山円勝の門に入り、記憶力強く一度種を付たれば忘れし事なく。日ならずして多数のネタを覚へ晴海晴雲と共に麒麟児と呼ばるゝに至り。事の外薄院長に引立てられ常に新ネタを付られつゝあり。

 一方、1924年の『改訂版浪花節名鑑』では、

親友派青年会副会長 京山円州 
本 名 重元正好 
年 齢 明治三一年二月十七日生 
初高座 明治四十三年十二月千日前愛進館 
十八番 乃木一門忠義

 と齟齬が生じている。上のプロフィールは二つを混ぜたもの。

 師匠の京山円勝は、初代小円の弟子だという。前名は「京山円三郎」。マイナーな師匠についたものの、立派に一枚看板となり、天才少年として売り出した。

 1914年、摂津弁天、さらに少年浪曲師の日吉川小秋水、京山幸枝、梅中軒鶯童と共に巡業へ出ている。『浪曲旅芸人』に、

一座は最近道頓堀弁天座で看板披露をやった女流の摂津弁天を座長として、私が助座長、前講は秋水門下の小秋水、幸玉門下の幸枝、それに円三郎改め円洲という少年一座、当時秋水・幸玉は秋幸会という一座を組んで各席の月割を取っていた。幸枝、小秋水(後の二代目秋水)いずれも未だ師の手許にあって年期中だったが、無断で引抜いて行くという。それは私も後に知ったのだが、かなりきわどい芸当で呉市の歳末 に一と儲けと計画したものであった。円洲が最年長で十七歳、幸枝、小秋水がいずれも十六歳、私が十二歳で最年少だった。
 摂津弁天のパトロンが朝国太一郎という、大阪玉造東雲席の席主、菊春師の妻である小富さんと朝国氏の細君が姉妹である関係で、菊春師は東雲席のすぐ隣りに住んでいた。大正中期に、慧星の如く少年浪花節の人気を一人でさらってすぐ消えた広沢菊一文字は、朝国氏の子息である。

 その人気と実力は鶯童を感心させたものだったそうで「年期小僧とは違う」と言わしめている。一時は一座の満場をかっさらう程であった。

当て込みの工廠の総勘定日、見込み通りの大入りだった。前座の次ぎが幸枝、客の入れ込みで演じにくい時間だったが途中喝采三回。次いで円洲、さすが年長者であり年期小僧とは違うから貫祿も余裕も充分だ、得意の小猿七之助で満場をうならして、大喝采四、五回。この舞台に押されてか続いての舞台、小秋水には一回の喝采もなく、得意のケレンも手応えがない。尤も彼、一時は師の秋水もたじろぐ程の人気を得たものだったが、いまスランプの時期にあった。少年期から青年期に移るころに誰も経験のある芸道のスランプ、これを如何に乗切るかというところが将来の分岐点で、彼はその分岐点にかかっていたのだ。

 1916年春には、先輩の広沢菊春夫妻についてアメリカ巡業に出発。前読みとして活躍している。『コロラド新聞』(1916年3月30日号)に、

●浪花節米国行 関西浪界親友派の新進廣澤菊春事佐々木善三郎(三二)は女房の三味線小とみ(二七)及秘蔵弟子の小春菊、円州などを引連れ、本月十四日神戸解纜の商船キャナダ丸で亜米利加へ乗込む六ヶ月の予定でタコマを振出して重に太平洋沿岸を打て廻はるといふことであるが……

 以来、有望株として活躍。大正初期から中期にかけての人気は目覚ましく、「乃木大将」「五郎正宗」「佐倉義民伝」などを得意として読んだ。

 1926年8月、オリエントレコードから『井伊大老』を発売。

 1926年12月、ツルレコードから『佐倉の曙』を発売。 

 1928年の番付では、幕之内候補者として、広沢駒坊(二代目駒蔵)、京山嘉一として登録されている。

 しかし、30歳を過ぎると徐々に盛り過ぎるようになる。かつて巡業で大きく引き離した小秋水と幸枝は大看板となり、鶯童もそれに続く逸材に成長。「麒麟児」として双璧を成した広沢晴海は関西圏内の寄席読みの名人として一家を成していた。それに対し、円州はこれといった功績もない。

 1930年5月、ヒコーキレコードから『乃木将軍と辻占売』。そのレーベルを見ると「二代目小円襲名者・京山円州」という。凄まじい。

 しかし、小円の二代目は京山円十郎が受け継ぐ事となり、円州が継ぐ事はなかった。

 1931年の番付では、「前頭12枚目」。かつてしのぎを削った京山幸枝は大関、小秋水は二代目秋水となり小結、晴海は前頭筆頭、鶯童も前頭5枚目と引き離されている。

 1934年の番付では、「別格」としてくくられている。

 1935年の番付でも「別格」。

 1937年12月5日、「青年浪花節の午後」と題した番組に出演し、「赤垣源蔵」を公演。相模太郎と共に注目の中堅として紹介されている。

 しかしこれを最後に番組表や番付から名前が消え、以降名前も出番も確認できなくなる。

 40代の男盛りに夭折したとみるべきか。

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