[random_button label=”他の「ハナシ」を探す” size=”l” color=”indigo”]
浅川三八の養子・広沢虎月
人 物
広沢 虎月
・本 名 東仲 徳蔵
・生没年 1884年5月25日~1949年
・出身地 兵庫県 神戸
来 歴
広沢虎月は戦前活躍した浪曲師。元々は浅川三八の養子「浅川登久丸」という御曹司であったが、思う所あって広沢虎吉門下に移り、「広沢虎月」と改名。京山福造、広沢菊水と共に三羽烏として売り出した。
経歴は『大日本人物誌 一名・現代人名辞書』に詳しい。
浅川登久丸 丈は大阪の浪華節講演家なり明治十七年三月二十五日神戸多聞通四丁目に生る、芸号浅川登久丸、実名は東仲徳蔵といふ十九歳浅川三八の門に入り声曲を学び二十九年更に廣澤當昇に従ひ始めて集寄亭に出演して好評を博す後ち座長となり各地を巡業す四十一年春前師三八の養子となる其得意の読物は血染の聯隊旗、津田三蔵等なり方今青年革新派会員たり
ただ、『増補浪花節名鑑』では「明治17年5月25日生れ」となっている。どちらが正しいのか不明。
師匠の浅川三八は関西の浪曲黎明期の人気者で、明治末には数多くの速記を残している。その人に見込まれる程であったのだから、実力はあったのだろう。
古典を得意とした師匠三八と違い、新作風の軍事浪曲を得意とした。勉強家で新作を演じるために書籍を買いあさり、小説や雑誌からネタを仕入れるという程であった。
そうした経緯を買われ、1908年、浅川三八の養子に入った。浅川家の次期当主として注目され、メキメキと頭角を現した。
しかし、どういう理由があったのか不明であるが、1914年頃、浅川家を離れ、「竹林軒虎月」と改名。関西浪曲界を牛耳っていた二代目広沢虎吉の門下に移籍することとなった。
この頃、桃山天声が入門している。当時の名前は「広沢天声」。
1917年頃、「広沢虎月」と改名。広沢派の大幹部として重きを置くようになった。
京山福造、広沢菊水と手を組んで「三友会」を結成し、全国を巡業。名声をほしいままにしたという。
しかし、1930年代後半になると表舞台にほとんど出て来なくなり、番付にも出なくなる。事実上の引退をした模様か。
梅中軒鶯童『浪曲旅芸人』によると「昭和24年没」との事。
[random_button label=”他の「ハナシ」を探す” size=”l” color=”indigo”]
コメント