サンフランシスコの名物男・北都斎謙遊

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サンフランシスコの名物男・北都斎謙遊

 人 物

 北都斎ほくとさい 謙遊けんゆう
 ・本 名 館谷 謙吉
 ・生没年 1888年10月28日~1931年6月15日
 ・出身地 北海道

 来 歴

 北都斎謙遊は戦前活躍した浪曲師。元々北海道の生まれで、北海道を中心に浪曲を演じていたが志あってアメリカへ渡り、当地で浪曲と弁士の二足草鞋を履いて、大変な人気を博したという。桃中軒浪右衛門と並ぶ国際派浪曲師であった。

 本名は『芸人名簿』より割り出した。「北都斎謙遊 三 末廣一〇安藤方 舘谷謙吉(明治二一、一〇、二八)」とある。

 北海道の出身で、同地で育った。師匠関係は不明であるが、名前から考えるに独学で一枚看板に成り上がったのだろうか。

 明治時代には既に一枚看板として知られ、北都を自称していた北海道の各寄席や劇場で相応鳴らしていたという。サイト「第9回 小樽の演芸館と、踊る商店主」によると――

 1910年12月2日 大黒座 北都齊謙遊 修行の為め東上に付浪花節空前の大会

 とあるのが確認できる。

 この後、上京して浪花節組合に入会。寄席や巡業で修業を重ねる事となった。

 1913年10月、笹川力丸を前座にして、初めてのハワイ巡業へ出かける。

 ハワイでの評判はなかなか良かったらしく、「大入を記録」「うまいと評判」「謙遊の大当たり」と当時の新聞から見る事ができる。

『日布時事』(1913年10月25日号)に、

〇浪花節の大評判 北都斎謙遊の得意顔 引続きホノルル座にて開演中なる北都斎謙遊の浪花節は益々好評を博しつつあるが咲夜は神崎与五郎二席大高源五一席を唸り神崎与左衛門の心根も見へ長吉の改名の場なぞ最もよく大高源吾が橋の上宝井其角に遇ふた時『似合ましたかイヒヒヒ……』馬鹿に気に入った『年の瀬や水の流れと人の身は』其角が詠めば源吾が『明日待たるる其寶船』と附ける、吉良家討入の場なぞ当時を偲ばしめた…… 

 とある所を見ると、反響は上々だったのだろう。

 十八番の演題は「忠臣蔵」「血染めの部隊」「召集令」など楽燕系のネタが多かった模様である。

 ハワイ各地を巡業したのち、1914年末に一度帰国。この時はまだアメリカの地に移籍する事はなかった。

 1915年10月16日、『ハワイ報知』に掲載された「ハワイに来布したる浪花節番付」では、西の小結として記録されている。絶対数が少ないので仕方ないのかもしれないが、木村重友、桃中軒巴右衛門に並んでの三役である。

 1917年4月、「駄々っ子」に掲載された番付では東二段目・前頭十一段目。前には東家若燕、東家小楽遊、鼈甲斎鶴丈、港家小柳丸、後ろに木村重正、玉川太郎(小金井太郎)が控えているのを見ると、相当な地位にいる事がわかる。

 1919年夏、再びアメリカへ巡業。今度はアメリカ本土へと旅立った。「天与の美音と巧妙なる節調は故国浪界の第一流と定評ある」というすさまじい煽り文句と共にアメリカ本土を巡業した。

 この巡業はなかなかの当たりをとったと見え、1920年5月には東京の大御所・敷島大蔵と二枚看板でアメリカ本土を巡演しているほどである。

 1921年頃より、「浪曲と映画」を持ち出すようになり、無声映画のストーリーに浪曲を当て込むという浪曲映画の手法を使った。

 浪曲より映画がウケるとわかるや、浪曲よりも活動弁士的な活躍を演じるようになった。当人が浪曲より映画説明に味わいがあった関係から映画に比重を置かれるようになったというが、映画の中に浪花節を入れた上に「浪花節入り映画」を売りにするなど、浪曲を捨てたわけではなかった。

 1922年に桃中軒団菊が渡米してきた際には看板を割って浪曲を演じている。

 この頃、アメリカに移住をし、アメリカ中心の興業を打ち出す事となった。子供たちは北海道に置いていたらしく、当地で稼ぎながら仕送りを続けていたという。

 一時は「ナミさん」こと桃中軒浪右衛門と並んでアメリカ浪曲界・弁士界の大立者として広く慕われたという。

 浪右衛門と共に日本映画を輸入し、それを日系人たちに見せていた事は映画史の側面から見てもっと評価されるべき事象であろう。

 1931年春、ロサンゼルス巡演中に宿痾の胃潰瘍が悪化し、入院。手術が行われたものの、予後はよくなかったと見えて間もなく衰弱をはじめ、6月15日、44歳の男盛りで亡くなった。

 同年、函館商業高校を出たばかりの長男・友幸をアメリカの大学に呼び寄せる矢先に亡くなった。『日米新聞』(1931年6月16日号)によると――

映画説明の謙遊君死去 桑港の名物男チョン髷の浪さんとならび称せられる南加の名物男映画説明の北都斎謙遊(四十四)君は、月曜朝二時羅府新日本病院で病死した。病名は胃潰瘍。同君は北海道の産、二男一女の父、長男は今春函館高等商業学校を卒業し、南加大学への入学手続き完備し、来月十五日来米の筈であり、謙遊君はその日を指折りかぞへて待つてゐたといふ。

『日米新聞』(1931年6月19日号)に追悼記事が出ている。 

惜しまれて死んだよい男北都斎『謙遊死んでも映画は死せず』ジョージ桑が代って説明 
活画説明の兄キ株、義理も情も心得たよい男、芸名北都斎謙遊の館谷謙吉君が、羅府の旅空で病を得、腸の切開経過よからずまだ四十四働き盛りを惜しくも去る十五日に死亡した、彼謙遊君は物にキレイな男であった。金貯めに余念ない連中の間にあって、謙遊君は「よい映画」を皆に見せようと考へてゐた。とにかく、あたら男一人失ったと広くあちこちで惜まれてゐる。

 葬儀は妻のリカが喪主となり、長男・友幸、長女・メリ、次男・幸男がアメリカに駆け付けて執り行ったという。

 本葬には日系人や興行師などが300人近く集まり、生前の人徳と人気が伺われる、和気あいあいとした葬儀であったと聞く。

 1933年7月、三回忌追善公演が組まれたあたりを見ると相当な名士だった事がうかがわせる。異国の地で生き、異国の地のために死んだ男だったといえよう。

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