肺病で夭折した吉川花蝶

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肺病で夭折した吉川花蝶

 人 物

 吉川よしかわ 花蝶かちょう
 ・本 名 網谷 大顕
 ・生没年 1879年~1907年11月30日
 ・出身地 兵庫県 姫路

 来 歴

 吉川花蝶は浪花節黎明期に活躍した浪曲師。実直な芸風と美声で売り出し、一時は浪花節の次世代の星と期待されたが肺病に倒れ、わずか29歳の若さで倒れて夭折を遂げた。

 29歳の若さで死んだ上に当時の浪花節の地位から資料が殆どないが、わずかな経歴と没年が『国民過去帳 明治之巻』に掲載されていた。

吉川花蝶 浪花節語り 姫路の人にして本名網谷大顕、明治十二年生る美声の花形たり四十年十一月卅日神田区紺屋町に於て肺患に因り歿す年廿九

 高島米峰作成の系図によると「吉川虎丸」の弟子らしい。

 10代で吉川虎丸に入門し、浪花節の修業を行った。伯父弟子に当る末廣亭辰丸に可愛がられ、彼の門下分として寄席に出入りするようになった。

 1905年10月、末広亭辰丸改め清風襲名披露公演で、ついでに看板披露を行ってもらい、「吉川花蝶」として独立。

 以来は清風を中心に、東家小楽、吉川辰丸等といった幹部に可愛がられ、寄席を掛け持ちするほどの人気を得た。

 美声と勉強熱心な姿勢が評価され、次期幹部として期待されたというが、間もなく体調不良に倒れ、病気が発覚。肺患であったという。

 1907年9月下旬まで、京橋青柳亭に出演し、病身を押して芸を演じていたが間もなく肺病を悪化させて、そのまま床に就いた。

 当時、不治の病であった肺病――しかも、当時の浪花節の収入ではどうにもならず、そのまま2月足らずで命を散らした。

 数え年で29歳。余りにも若い死であった。

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