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二代目楽遊の弟・東家小雀
人 物
東家 小雀
・本 名 中村 廣次郎
・生没年 1894年2月7日~1962月11月10日
・出身地 東京
来 歴
東家小雀は戦前活躍した浪曲師。戦前を代表する浪曲の大御所・二代目東家楽遊の実弟で、兄の引き立てで売り出した人物であった。節真似が得意で器用な味わいを持っていたと聞く。
実家は中村力松という大工で、楽遊は長男、小楽遊は四男、小雀は六男にあたる。楽遊が家業を継がずに飛び出した事もあって、早くから大工家業を仕込まれたという。しかし、その四男、六男も家を飛び出して浪曲師になってしまう。とんだ道楽者である。
当時、『小松嵐』で一世を風靡していた兄の東家楽遊の門下に入り、「東家小雀」と名乗る。末弟で小柄だったところから「小雀」と名付けられたのだろうか。
兄の威光もあって、売り出しは好調であった。いい所で前読みをしたり、名門劇場に出演している。
また節真似も得意だったそうで、これで時に場をつないだり、大喜利としたともいう。一方、浪曲の本ネタは兄への遠慮からか軽いネタが多く、これは後年まで付きまとった。
10代にして節真似は評判だったと見えて、1912年1月10日の『北海タイムス』に、
◇札幌座に東家楽遊一行は、弟小楽、物真似で人気のある青年小雀、楽鴈などの大一座で本日愈々初日。十五日迄公演の予定。
1915年6月、真打に昇進し、浅草館で看板披露を行った。公演には師匠の楽遊をはじめ、大師匠の三叟、身内の東家楽鴈、愛楽、楽友などが集い、東家一門会結束といったところ。
兄の楽遊が人気を落すにつれて、自身も人気を失い、兄の威光も失われるようになった。
ただ、「虎の威を借りる狐」であったかといえばそうでもない。レコードを数枚吹き込んでいるが、普通にイキのいい関東節を展開していて、面白く聞ける。
一方、覇気がない、兄そっくりの芸で兄の模倣を出ないといわれればそれまでなのかもしれない。
1916年3月、ハワイを中心に活躍していた歌舞伎俳優・市川鶴三郎率いる「歌舞伎浪花節総合大芝居」に参加。いわゆる節劇の太夫として参加をしている様子が、当時の『ハワイ報知』などから伺える。
1927年にもハワイに渡り、浪曲を演じている様子が確認できる。
1929年1月、ハワイの醍醐分教院に招かれて、法要の後の演芸を担当している。よくハワイへ行く人である。一方、その程度しか情報がないのが虚しい。
寄席では一応の格を持って、出演していたというが遂に大看板になる事はなかったという。下手な人物ではなかったというが、兄が余りにも偉大過ぎたというべきだろうか――
1935年3月、ハワイに招かれて浪曲を演じたのが最後の大仕事だっただろうか。
その後は、浪花節界から距離を置くようになり、戦後は廃業同然となった。
廃業後は、自転車屋を経営していたそうである。静かな余生を送ったという。
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