ジャーナリスト浪曲師・雲井不如帰

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ジャーナリスト浪曲師・雲井不如帰

 人 物

 雲井くもい 不如帰ほととぎす
 ・本 名 宇都宮 弘
 ・生没年 ??~戦前
 ・出身地 大阪?

 来 歴

「宇都宮天火」というペンネームで新聞記者をやっていたが、雲右衛門や奈良丸の活躍や浪花節の思想に感化されて、浪曲師になったという変わり種。

 父は宇和島藩・伊達宗城に仕えた小姓頭・宇都宮新三だという(伊藤痴遊『大村益二郎』)。新三は宗城の信任を得、村田良庵と名乗っていた時代の大村益次郎と面会し、宇和島藩への出仕を求めた人物だという。

 そうした関係から維新後も宇都宮家は伊達家や周辺華族の家への出入りを許されたという。その息子に生まれた彼は相応の学識をおさめ、学校卒業後、大阪日報(大阪毎日新聞の前身)に入社。記者になった。

 新聞記者になるだけあってか、相応の学歴もあり、筆も立った。頭もよかったというべきだろう。政治家や文化人とも付き合いがあり、このコネクションが後々役に立ったという。

 明治末、大阪ですさまじい人気を集めるようになった雲右衛門や奈良丸の「武士道鼓吹」の浪花節に感化され、1909年、浪曲師に転向。

 1911年3月、京都夷谷座に出演した際に、その経歴が掲載された。『近代歌舞伎年表京都編』に残っているので引用しよう。

是は元大阪日報記者宇都宮天火の化身、一昨年来飜然筆をすて、舌の人となり、雲右衛門調を無類の美声に玉を転ばすやうに語りこなすが殊に会話は伊藤痴遊の新話術を直伝とあるのでその右に出づるものなく、『明治側面観』といふ新しい読みものとする。

  政治家で講談師の伊藤痴遊や雲右衛門の弟子の桃太郎に師事する形で、浪曲を会得した。伊藤痴遊から信頼され、ネタの浪曲化を許された。

 1912年1月、初上京を果たし、明治座に出演。注目を集める事となった。

 1913年9月、私淑する伊藤痴遊と二人会を結成し、「新浪花節と新講談」として京阪を巡演した。

『乃木将軍謝罪の涙』『頭山満伝』『昔の大学生気質』『伊藤公の英国洋行』『乃木将軍の殉死』『憲法発布当日の悲劇』『大井馬城の奇行』『桐野利秋無名の侠客』『常陸丸』『明治天皇陛下のご聖断』など、浪花節とは思えない程、文学的で歴史的な外題を読んでいる。

 1913年頃、創設したばかりのオリエントレコードから「乃木大将」「英国密航」「廣瀬武夫 (財部彪氏談話)」の三つの新浪曲を吹き込んでいる。さらに後年「怪傑頭山満」なる右翼の大親玉・頭山満の伝説を吹き込んでいる。

 新物読みとしては相当な地位にいたそうで、その芸はなかなか達者、そして文章も外題付けも上手かったそうで、昭和の浪曲の名人・梅中軒鶯童は『浪曲旅芸人』の中で、

雲井不如帰という人には遺憾ながら遂に一度も対面せずに終ったが、例の松崎天民等と同様の新聞記者で、好きと器用で浪界入りしたのであった。実際の舞台には一度も接する機会は無かったが、同氏の残した台本の上では相当のお馴染である。材料は伊藤痴遊の新講談から引抜いたものだが、独特の文章で綴られた節詩などは、さすがに立派である。概して文章家の手に依った台本は、徒らに文章に捉われて上すべりするものだが、雲井氏の台本は決して上すべりしない、がっちり大衆の中に溶け込む要素が整い、「小村寿太郎と魚竹」「伊藤井上英国密航」など、今誰人かがそのまま舞台で使っている傑作が多い、たしかに芸の極意を究めていた人だと思う。先年度米した時に聞けば、後年アメリカに来て加州日報の記者をやっていたが、桑港で病没したという話であった。

 と高く評価している。『小村寿太郎と魚竹』は、わかの浦孤舟などが戦後まで得意とし、「英国密航」は廣澤瓢右衛門を得て、国本武春などが演じた他、瓢右衛門を尊敬していた立川談志がこれを落語に移入し、立川流の落語としても名を残している。

 その後は独立し、京都の劇場を中心に活躍。明治の元勲や幕末の志士たちの逸話を得意とし、『板垣退助の遭難』『大井憲太郎の奇行』『福井丸』『江藤新平』『西南戦争』『広瀬中佐』『大隈重信と爆弾』『仏国飛行家ギャローの突撃』『第一次世界大戦』『中江兆民と西園寺公望侯』『山本権兵衛』など、時事問題や建国の偉人たちを続々と浪花節に仕立てた。

 こういった時事問題の導入や巧みな演出で人気を集めたという。

 1915年春、アメリカへ渡り、各地を巡演。帰りにハワイへ寄り、そのままハワイに居を構える事となった。

 同地では日系人たちの文化的な活動を支援し、頼まれれば浪花節も真面目な講演も行ったというのだから、相当な人である。

 画家の桑重儀一や岡本綺堂がハワイに立ち寄った際も出会った――と『ハワイ報知』にある。

 1917年6月より、再びサンフランシスコへ渡り、浪曲巡業を行っている。

 1919年には、当地の文化人と語らって「文士劇」なる演劇一座を結成し、演劇の指導と啓蒙に務める事となった。

 この頃、日本の演劇界を飛び出し、渡米を目論んでいた日本人初のハリウッドスター・上山草人と出会っており、文士劇で一時期行動を共にしている。

『日布時事』(1919年3月29日号)によると「草人氏も亦マグダ開演以来宇都宮氏の天才を認め茲に両氏は意気投合したと見え」云々。

 間もなく草人はアメリカ本土へ行くが、「文士劇」自体はしばらく続いた。

 1922年3月、サイベリア丸に乗って帰国。5年近い滞米生活に別れを告げた。

 その後は巡業や講演などで暮らしていたというが、浪曲が既に演芸の王者として君臨しており、ニュース的な浪曲が必要なくなったこともあってか、そこまで騒がれる事もなくなった。

 梅中軒鶯童によると、その後、浪曲師を辞めて、再びアメリカに渡り、加州日報の社員になったという。加州日報(加州産業日報の事か?)は1930年代の創刊のようなので辻褄としては会う。

 しかし、その後太平洋戦争が勃発。日系人は弾圧され、強制収容所送りや追放を受けた。雲井不如帰がその頃まで生きていたか不明であるが、苦労をしたのは事実であろう。

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