京山一門中興の祖・京山恭安斎(二代目)

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京山一門中興の祖・京山恭安斎(二代目)

 人 物

 京山きょうやま 恭安斎きょうあんさい
 ・本 名 畠山 末吉
 ・生没年 1855年頃~1916年4月10日
 ・出身地 摂津國 豊能郡 池田

 来 歴

 京山恭安斎(二代目)は浪花節黎明期に活躍した人物。「浮かれ節」と呼ばれた浪曲の改良に尽力を注ぎ、京山若丸、小円、恭為、大隅、大教などを輩出。京山を一大ブランドに仕立て上げ、東西浪曲界から「初万のオヤジさん」とあだ名されるほどの精力を誇った。

 江口鉱三郎「おなじみ浪曲集 名人十八番」の経歴に詳しい。

 二代目京山恭安斎は、奈良県の生れで十二三才のころ初代に入門した。その美声と独特の節廻しは絶対の人気を博し、明治十二年二代を襲名して益々芸はさえ、関西浪界の大御所となったのである。
 得意の読み物は、義士伝、武芸物などであるが、とくに武芸物を読ませたらその豪放たる芸風にきくものはわれを忘れ感嘆した。

 一方、芝清之は「芸の方はあまりよくなかったが、人格に勝れ面倒見がよく……」と人格が優等だったために出世した旨を記している。

『大日本人物誌 一名・現代人名辞書』によると、「摂津國豊能郡池田の九頭山千手院住職主観の次男にして、二十一歳の時紀州藩典医板原庵拙の二男板原恭庵斎(浮れ節の元祖)に就き浪華節を学び……」とある。

 入門時は「京山光治」と名乗っていた。

 当時はまだ「デロレン」「ちょんがれ」などと揶揄されていた事もあり、恭安斎の苦労も並大抵のものではなかった。寄席になど到底出られず、巡業や門付け、よくても大道芸同様に仮設の小屋を立てての興行であった。

 その中で広沢虎吉、吉田音丸といった関係者と手を組んで寄席への進出を目論み、浪花節の小屋を設立するに至った。

 師匠・恭安斎によく仕える傍ら、数多くの関係者や弟子をとりまとめ、京山一族をブランドとして練り上げた。

 すでにこの頃から弟子をとるようになり、京山小円、京山大隅、京山大教などがその一門として並んでいる。

 1899年3月14日、師匠の初代恭安斎死去。なお上では「明治12年襲名」とあるが、明治22年が正しいのだろう。

 一門総出で京山恭安斎の墓を建て、これを祀った。和歌山と広島に墓があり、前者は和歌山の文化財として現存。後者は広島原爆で甚大な被害を受けたが、どうなったか。

 1900年、京山若丸が入門。秘蔵弟子として大切に育て上げ、明治末には雲右衛門、奈良丸、小円と並ぶ人気を集めた。

 自分の弟子たちが売り出しに成功するようになると自身は浪曲家稼業から一線を退き、後進の育成と指導に力を注ぐようになった。長らく「初万」という寄席を経営し、育成と生業を両立していた。

 親分肌で面倒見のいい性格として知られたそうで、「来るもの拒まず」のスタンスを取り続けた。経営していた寄席から「初万の旦那」「初万の爺さん」と敬愛され、三河家梅車一座から逃げて来た雲右衛門や放浪時代の吉田奈良丸の面倒を見ていた事さえもある。

 そうした関係から奈良丸も雲右衛門も恭安斎には一定の信頼を置き、「初万の頼みなら」と普通なら断ることも義理を通したという。

 基本的には弟子には放任に近いスタンスをとっていたようで、弟子に自らの芸を押し付ける事はなかった。小円の様に義太夫の発声を生かした「三段返し」なる特殊技法を生み出しても、若丸や恭為の如く新作中心の浪曲師になっても、何一つも言わなかったという。

 1912年、「京山恭安斎改め畠山松雪」襲名披露を行い、事実上の引退を宣言。3月には上京し、東京の客にもお目通りをしている。

 引退後は、「初万」の経営に力を注ぐ傍らで、「浪人部屋」と呼ばれる部屋を経営し、若手の育成に力を入れた。

 ここから日吉川秋水、京山恭為、芙蓉軒東天、梅中軒鶯童などと優秀な人材が数多く出ている。

 1914年頃に浪人部屋に転がり込んだ梅中軒鶯童の様子が『浪曲旅芸人』に出ているので引用しよう。

浪花節語りがごろごろしている浪人部屋、京山の宗家二代目恭安斎 (畠山伯州) 初万の爺さんで通っている、この家に私と弟子の二人が転がりこんだのは、誰の口添えだったのか、いまは全く記憶もないが、多分父が誰かの紹介をもって頼んだものであろう。
 四天王寺の西門、石の鳥居から真っすぐに白酒屋の表を通って逢坂を下ると松屋町筋下寺町の三叉路、左はすぐ天王寺公園北入口、西北角に閻魔堂がある、このあたり例の俊徳丸で有名な合邦辻。閻魔堂の裏通りの路地を、下寺町の通りから西へ数間入った北側の浪人屋敷、ここから日本橋筋に出るまでのゴミゴミとした裏町、六道の辻近辺が昔から長町裏と称される大阪の貧民窟ということになっている。
 浪人屋敷の建物もずいぶん古いものと見えて、いらかに草たけが丈なしているが界隈では見受けぬ門構え、土塀造り、門を入ると門長屋があって、門内の空地から右に母屋の建物がある。小玄関から奥深く座敷が伸びて、台所の勝手も広い、いかにも屋敷らしい屋敷である。表二階の八畳が即ちわれ等の 浪人部屋なのだ。他に小部屋はあるが、この二階八畳一室だけは、夏も冬もなく四季を通じて室内一ぱいに藁布団が敷き つめてあり、掛け布団は時季により必要に応じて着るのであろうが、いまは夏、掛け布団の必要もないから勝手気儘にご ろごろ寝る。昨夜は誰れが寝ていたのやら、今日はまた誰れが来て寝るやら、滅茶苦茶だ。解放的といえば全くの解放的 である。
 勝手元の方もこれと同じだ。いつ誰れが飯を食ってるやら、出入りの者は随時随意に箸を取っている。菜は味噌汁の一点張り、飯と味噌汁は時を選ばずいつでも用意が出来ている。 台所の受持ちは、阪急線の螢ヶ池から弟子に来ている小伯という、身体が小さくて顔に若皺の多い、物語りに出てくる日吉丸そのままという男。いま一人は、ひどい出っ歯で綽名を出歯市という、近郊平野生れの正野市松。彼等二人もやはり浪花節を志して京山宗家の門を潜ったに違いないのだが、いまや早朝から深夜まで飯釜と汁鍋に立向って、素はだしの尻端折りで勝手場に立ちん坊、それでも意気は旺盛だ。
「わいかて京山の直門や。一番新入りでも直門は直門や、小円、若丸、恭為、みんな弟子兄弟や、春風も水月も、吾一も円十郎も、みな甥や」
 浪人共はこの台所の二人組には相当心を使う。二人組に睨まれると試食絶食の怖れ無きにしもあらず、御意を得るよう直門だ直門だといっておだてる、お互いに居候は辛いものである。
 恭安斎畠山の爺さんは勝手元で誰が無駄飯を食っているやら、浪人部屋に誰人が寝ているやら、一向知らぬ顔で関羽のような白髯を撫でて、いつもにこにこしている。 
 門長屋には京山恭一おじさんが夫婦で寝起きしている。部屋頭、目付役、これがなかなかうるさいのである。畠山の門出入りする者は、まず第一にこの部屋頭の御機嫌を伺う必要がある。 恭一といえば畠山の最古参であるばかりでなく、元祖恭安斎以来の縁故もあり、恭安斎二代の畠山伯州翁でさえ、いささか遠慮されるほどだから、浪人共が朝夕顔色を窺うのも当然、このおじさん癖で口が悪いときているから堪まらない、一つ間違うと雷が落ちる。然し悪意の無い人で、鳴りちらしているかと思うと、あとはケロリとしている。

 普段はニコニコしていてどんな浪曲家が寝起きして居ようとも何食わぬ顔していた恭安斎であるが、一方でそこに寝起きしていた浪曲師を寄席に売り込むというしたたかな一面を持っていた。

 弟子や関係者は「初万の爺さん」と尊敬して何かと援助をしたり、初万に出演して恭安斎の収入を与える。恭安斎はそれを元手に米や味噌を買い、若手浪曲師の拠点を作るといういった塩梅であった。

 一方、気が抜けた浪曲師には叱咤激励をする一面を持っていたそうで、梅中軒鶯童がスランプに陥っているのを見兼ねて、「いっぺん雲右衛門の所へ行ったらどうや。頼んでみるさかい」と梅中軒鶯童を雲右衛門の所に送っている。

 傲慢不遜、人を色目で見るといわれた(実際は誇張されている)雲右衛門も「初万のとっつあんの頼みなら」と海の物とも山のものとも知れぬ梅中軒鶯童に面会し、「自分の弟子にさせるわけにはいかないが、自分の芸は弟子の福右衛門に写してあるから、アイツから教えてもらいなさい」とアドバイスるるなど、「初万」のブランドは御影倒しではなかった。

 1915年8月19日から一週間、京都明治座で開催された初代雲月の浪曲大会の前読みに列席。雲月の堅い読物を盛り立てるつもりか「左甚五郎」を公演し、邪魔にならない芸を見せたという。

 最晩年は病の床に臥せるようになり、61歳で死去。

 臨終の間際、弟子の若丸に向かって、「聞き納めに一節やってくれ」と頼んだ。若丸は涙をこらえながら、一席唸ると、恭安斎は満足そうに眼を閉じてそのまま亡くなった――と『浪曲人物史』の中にある。

 娘は後年、関東へ移り、浪花亭愛吉と結婚。生涯寄り添う事となる。

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