江戸以来の名門・都京徳(三代目)

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江戸以来の名門・都京徳(三代目)

 人 物

 みやこ 京徳きょうとく(三代目)
 ・本 名 中島 幸蔵
 ・生没年 1873年12月27日~大正初期?
 ・出身地 徳島県 牛島村

 来 歴

 三代目都京徳は浪花節黎明期~大正期に活躍した浪曲師。土佐の日本画家・思想家の河田小龍の弟子からスタートし、骨董商を経て浪曲師になった変わり種。江戸以来の都京徳の大名跡を継いだが、夭折したらしい。

 経歴は『大日本人物誌 一名・現代人名辞書』に詳しい。というよりこれ以外の資料には出てこない。

都京徳 丈は大阪浪華節講演家なり明治六年十二月二十七日徳島県麻植郡牛島村に生る、中島浩平の二男、家世々郷士たり実名中島幸蔵、幼時徳島旧藩士青森繁盛に養はれて嗣子となる十三歳放蕩に身を崩し実家に戻さる十六歳家を去り土佐に往き画家河田小龍の書生となり居ること年余十七歳新派劇東義團に入り俳優となり各地に巡業し明治廿八年帰郷して瀬戸物商を営む翌年二代目都京徳の浪華節を聞き之れに感じ家業を捨て其門に入り都京玉と称し師と共に各地を巡業し大阪に戻り都玄楽と改称して各席亭に講演す後ち二代目京徳其他同派のものより推されて第三代目都京徳を襲ぎ座長となり以て今日に至る其得意の読物は日露戦争第三師団騎兵山口三之助伝等なり今青年改革派幹事たり

 河田小龍は幕末・明治に活躍した日本画家・思想家として知られた人物。Wikipediaにも記事がある。風流な日本が作成の傍ら、ジョン万次郎の聞書き『漂巽紀略』の執筆や土佐藩士・坂本龍馬や長岡謙吉、後に明治維新の立役者となる岩崎弥太郎、後藤象二郎の面倒を見るなど、土佐藩でも指折りの文化人として知られた。

 京徳が弟子入りした頃にはそれらの人物は殆ど世を去るか、小龍の元を離れていたが、小龍は明治維新後も悠々自適の老後生活を送っていたという。 

 ただ、弟子入りして間もなく小龍が京都に引っ越した関係もあってか、この師弟関係は希薄なもので終ったようである。

 当時流行していた民権運動や自由主義を練り込んだ壮士芝居の俳優、更に骨董商を経て、浪花節語りになったという面白い経歴を持っていた。

 師匠の京徳は幕末~明治に活躍した人物で、大師匠の初代京徳は「浪花節の元祖」の一人と考えられる功労者。デロレン祭文と呼ばれていた浪花節に音楽性を加え、「浮かれ節」を生んだ。この人の弟子の一人が都京山――後に京山恭安斎と改名し、京山一門を開いた。

 この三代目京徳も明治末には相応の人気があったらしく、主に軍事物を読んだという。

 そうした人気と実力も見込まれたのか、三代目京徳を襲名。上の記載を正しいとするならば、三代目襲名時には二代目が健在だった模様である。

 1913年頃には一枚看板で、相応の弟子もいたようだが、長続きはしなかった。この人が江戸以来続いた「都京徳」の最後の人となったのは皮肉というよりはない。

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