サラブレッド・前田節子

[random_button label=”他の「ハナシ」を探す” size=”l” color=”indigo”]

サラブレッド・前田節子

 人 物

 前田まえだ 節子せつこ
 ・本 名 今村 阿以
 ・生没年 1885年5月~??
 ・出身地 九州

 来 歴

 前田節子は、戦前戦後活躍した浪曲師。実父も養父も浮かれ節の大幹部というサラブレッドであり、実兄も義姉も大看板という恵まれた家柄で育った。芸の毛並みは良かったそうで、ハワイ巡業に何度も出かけた程である。

 父は吉田寿、姉は前田八重子――というのが通説であるが、鶯童によると「養女分」であったそうで、実父は浮かれ節の竹川忠治のようである。戦前の名人・竹川馬生、吉田弥壽春、雲右衛門の養子・神谷音次郎、末妹に梅中軒鶯童の妻となった光子がいる。

 幼くして吉田寿に貰われて、姉の吉田八重子とともに「八重子・節子」の天才姉妹として売りに出される。寿は「吉田派宗家」を自称し、相応の権威を持っていたという。

 経歴は『東西浪界写真名鑑』に詳しい。

 本   名 今村阿以
 生年月日  明治十八年五月
 師   匠 吉田家々元ノ娘ニテ本名ヲ名乗ル
 初入門年月 十三才
 藝(十八番)勧進帳、加藤清正、本能寺
 趣   味 観劇
 初 舞 台 十三才、東京市場亭

 若くして上京し、天才浪曲師として売れに売れたという。また、大阪の「松島女流団」にも所属し、団幹部たちの庇護を受けて大きくなった。

 長らく姉の八重子と二枚看板で活躍を続けており、その美貌と達者な技芸は女流浪曲の花形だったという。

 一時期は平一喜、京山愛子、女雲右衛門と並べられるほどであった。

 1914年、姉の八重子から独立し、「前田節子一座」を結成。夫の今村源次郎が支配人になったという。

 この時、誘われたのが梅中軒鶯童で、『浪曲旅芸人』の中で、「前田節子が八重子と分離して独立の一行を組織するので同座するよう、少し前から話もあって、それが本極り、五月に入ってその一行で中国から九州へ、そして満洲への巡業が交渉成立」とある。

 全国を巡業し、6月23日門司出港の船に乗り、朝鮮満洲へ巡業する事となった。

 この一座の中で、鶯童は持ちネタの一つであった「紀伊国屋文左衛門」がよく当たることを知り、今村源次郎から「これはあんたにはまった読み物や、十八番にしなさい」と強く勧められたという。この後、鶯童はこのネタを磨き上げ、レコードに舞台にと大ヒットを飛ばす事となった。

 その後、しばらく鶯童たちと全国を回り、その後大阪に戻ったという。

 地方巡業や大劇場への出演で人気を集め、女流浪曲の大幹部として君臨した。

 1918年、姉の八重子が夭折。大きな柱を失い、しばらく元気がなかったようである。それでも立ち直り、末妹の錦子や八重子の遺児を引き取って「二代目八重子」を襲名させるなど面倒を見た。

 1925年1月、アメリカの興行師に誘われ渡米。メンバーは、吉田丸子、前田八重子、前田節子、前田節美、前田節子の6人。

 このメンバーで一年ほど、アメリカハワイを巡演し、喝采を得ている。

 1928年1月、漫才の松葉家奴一行と共に渡米をし、再びアメリカ巡業を行っている。バラエティ一座という事もあってか、入りは良かったようである。

 帰国後は、大阪を中心に活躍。レコードやラジオ放送にも出演している。

 1940年代頃まで女流浪曲の大御所として番付に出ている様子が確認できるが――

[random_button label=”他の「ハナシ」を探す” size=”l” color=”indigo”]

コメント

タイトルとURLをコピーしました