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女流花形・宮川女左近
人 物
・本 名 斎藤 繁子
・生没年 1919年~1973年以降
・出身地 東京?
来 歴
宮川女左近は戦前戦後活躍した女流浪曲師。吉田奈良重の娘として生まれ、少女浪曲師として出発、戦時中は慰問の花形として活躍した。
芝清之『日本浪曲大全集』によると、吉田奈良重の娘であるという。姉妹に一条日出子がいる。
生年と本名は「陸恤庶發第八八六號 船舶便乗願ノ申請」(昭和十四年九月四日号)より割り出した。曰く――
一、往航 昭和十四年九月一四日宇品發 (龍興丸)塘沽行 上海行
二、復航 同 十一月上旬 塘沽發宇品行
中旬 上海
陸軍恤兵部主催 南支方面皇軍慰問團人名表(八名)
藝 目 藝 名 本 名 年 齢
漫 談 富田淑雄 富田淑雄 四五才
浪 曲 宮川女左近 斎藤繁子 二〇才
同三味線 戸川辰春 河合春雄 三四才
漫 才 青柳ミチロー 青柳辰雄 三六才
〃 柳ナナ 今澤美津子 三三才
歌謡曲 笹原文江 笹原文江 二六才
アコーデオン 萩原信也 萩原信也 二六才
三好天橋 三好利勝 四五才
父が浪曲師だった関係から、早くに芸を仕込まれ、少女浪曲師として舞台を踏む。三代目宮川左近に入門。「宮川女左近」と名乗るようになる。
この女左近の名跡は元々松平八千代が名乗っていた名跡であるが(ただし左近の非公認で)、この繁子の入門で「宮川女左近」は正式の名称となった。
実力派浪曲師として寄席周りや慰問で実力を磨いた。売り出しの頃がちょうど慰問の時期だった事もあり、慰問で高い人気を集めた。
1938年の番付では前頭七枚目。
1938年8月から台湾全島慰問。『愛国婦人会台湾本部沿革誌』によると、登坂千里、漫才の島津小萬・黒田寿美、浪曲の宮川女左近、吉田奈良重、舞踊姉妹のリラハマダ・ニナハマダがメンバー。
1939年6月、姉の一条日出子と共にハワイを巡演する計画が立ったものの、慰問のダブルブッキングや諸般の事情でハワイ行は諦める羽目になった。
1939年6月、慰問に出掛けたらしく、20日に南昌戦線に到着。「西山万寿宮日記」の中に、
六月二十日 曇時々雨
十四時より連隊本部(第三)広場で慰問演芸があるので兵隊と出かける、この頃はすっかり治安も良くなり少しも危険を感じさせないようになった、会場で一別以来の内藤少尉、平林少尉に会う、会場は数千名の塀で埋まる。
舞台は寺の本堂如き処に赤幕と日章旗で飾り付けがしてある、清水部隊長も出席す、折りから小雨降り出すが、将兵一同皆喜こんで見、かつ聞いている、小雨の中の寄席気分だ、出席者は女性が多く、羽衣歌子、松平佐都子、宮川女左近、万歳と云った顔ぶれ、東京部隊の連中は浅草でおなじみとの事だ、相当エロな事を云って、一堂を喜こばす、内地では当然発禁物だろう、それだけに出演者も愉快にやっている。
とその印象が記載されている。
1941年の番付では前頭筆頭に就任。
戦後も巡業を中心に活躍し、相応の人気を集めていた。
1952年2月、歌謡浪曲の堀井清水・小川久雄、漫才の森信子・秀子、チンドン屋の坂井喜楽と共に念願のハワイ公演。「東京名人会」と銘打って、ハワイ全島を回り人気を集めた。
帰国後も相応に活躍を続けていたが、結婚か何かで引退し、群馬県水上町へと引込んだ。その後は市井の人として静かに余生を過ごしていたらしいが、1973年に後輩の吉田奈々子に「宮川女左近」を譲渡している。
この女左近は後年「港家小柳」を襲名し、2017年に舞台を退くまでの70年余り、第一線で活躍を続けていた。
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