声楽家も舌を巻く美声・宮川左近(三代目)

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声楽家も舌を巻く美声・宮川左近(三代目)

 人 物

 宮川みやかわ 左近さこん
 ・本 名 富永 富一
 ・生没年 1898年7月13日~1938年9月21日
 ・出身地 長崎 佐世保市 境木町

 来 歴

 宮川左近(三代目)は戦前活躍した浪曲師。清楚な人柄と風貌、女性顔負けの甲高く澄み渡る美声、円満人徳な性質で一時代を築き、関東浪曲界の雄になったが、40歳で夭折をした悲劇の天才であった。

 出身は長崎の佐世保。生年月日は『日本人名大辞典』に依った。「おなじみ浪曲集 名人十八番」などでは「明治31年生れ」とあるので間違いではないが、これ以外に証拠がないので微妙な点である。

 佐世保基地が近くにある関係から海軍士官に憧れる幼少期を送った。幼いころは病弱だったそうで、剣道や鍛錬で身を鍛え、立派な体を作り上げた克己の人でもあった。

 高等小学校卒業後、憧れの佐世保鎮守府に入隊。電話逓信の勤務に就いた。

 この勤務中に佐世保弥生座に京山若丸一行が来演。何気なく見に行ったこの公演で若丸の「乃木将軍」に強い衝撃を受け、浪曲師になることを決意。同地に来演する雲右衛門や奈良丸の公演を聴いて、その決意を情熱に変えた。

 鎮守府に辞表を提出して、1915年8月に地元の浪曲師、二代目宮川左近に入門。「宮川近衛」と名乗る。

 当時左近には30数人ほどの弟子がいたが、富一少年の美声に惚れこんだ。

 1917年、左近は病気のために富一に左近を禅譲する事を決意。同年8月17日、富一は20歳の若さで「三代目宮川左近」を襲名。師匠の左近はその1月後に亡くなっている。

 若いころは玉のような美声を転がしながら、師匠譲りの「檜山政談」「忠臣蔵」などを古典を読んでいたほか、二代目が節劇(浪花節を入れた時代劇)をやっていた関係から、地方回りの節劇でお茶を濁していた事もある。

 1920年には中国大陸を放浪し、「講談師宮川左近」と称して在留日本人を相手に公演を打っていた――と地元の新聞にある。

 師匠の地盤を受け継いだ関係から関西では大変な人気を誇り、地元の名士として慕われていたが、左近は若い頃に感銘を受けた若丸や雲右衛門の味が忘れられず、中央に出て出世したいと考えていた。

 名古屋にいた知り合いの興行師を頼って、九州を後にした。名古屋の寄席に入って武者修行を行い、芸を磨いた。その時の戦友が松風軒栄楽で、二人は義兄弟の関係を結んでいる。

 1922年8月3~7日、四谷大黒座に松風軒栄楽と共に出演。

 1923年1月11日~15日、松風軒栄楽と共に浅草開盛座に出演。

 1923年1月16日~22日、松風軒栄楽と共に浅草十二階劇場へ出演。

 1923年3月2~9日、二代目雲右衛門を入れて、浅草金龍館で「三人会」を開催。

 ここで栄楽と別れ、旅巡業へ出発。そのおかげで関東大震災の難は逃れている。

 関東大震災後、東家楽燕の元に草鞋を脱ぎ、楽燕の引き立てを受けた。その関係から「楽燕の愛弟子」と書かれている資料もある。『読売新聞』(1925年12月19日号)に、

楽燕秘蔵の愛弟子 語り物は師匠の口うつし
今夜浪花節「藤堂高虎」を放送する宮川左近さんは今更声を大にして紹介するにはあまりに人気者です腕揃ひの東家楽燕門下の中でも一きわ目立った若武者振り差し当り緋をどしの鎧で馬を陣頭に進めようといふ格です。楽燕師も特に可愛がって弟分にしてゐるので華やかさが分からうといふもの、今晩放送の『出世高虎』もそつくり楽燕師が口うつししたもので左近さん得意中の得意の読物です、この十四日から二三日まで毎日浅草劇場に出演中ですが来年の元旦を加賀は金沢の帝国館で迎へると其まま旅を巡つて春三月か四月にならなければ東京へは帰らない予定ださうで今晩の放送は云はば当分のお名残りになる訳ですから愛浪家の力瘤の入れ方は一としほだらうと思はれます、左近さんの得意は「天野屋利兵衛」「南部坂」「赤垣源蔵」「大石妻子別れ」「乃木将軍」「召集令」――書き上げて来ると往くとして可ならざるなしといふ事になりますが前に云つた通り「出世の高虎」は取り分け得意なさうですからそのおつもりで伺ひませう。

 楽燕から「忠臣蔵」や「召集令」、「生ける悲哀」などといったお涙頂戴のネタを次から次へと物にした。また、散々客を泣かせた後に「博多節」「都々逸」などといった美声を生かした余興を演じ、客の関心を強く買ったのも大きかった。

 芝清之『浪曲人物史』によると「我らのテナー」と呼ばれ、世界的な評価が高かった声楽家の藤原義江が「あの声はすごい」と絶賛した事もあるという。

 楽燕の引き立てもあって、上京から数年で大看板の地位を獲得した。

 1925年12月19日、JOAKに出演し、「藤堂高虎」を放送。

 1927年、師匠の遺児・高見ももえと結婚し、左近家の家柄を名実ともに継承している。

 以来、悲劇物の第一人者として活躍。「石童丸」「忠臣蔵」「俊徳丸」といった古典も読みこなしたが、本領は近代的な美談や悲劇にあり、「生ける悲哀」「血染めの伝令」「涙の審判」「渦巻く火焔」「乃木将軍シリーズ」など、軍隊や市井の美談や悲劇を取り上げ、満場の客を泣かせた。

 玉を転がすような見事な美声、張りのある高音の品格、優しくも凛々しい風貌、温厚とした人となりは高く評価され、紳士淑女のファンも多かった。

 若き日の田中角栄も彼の芸が好きだったそうで、政治家になったのち桂米朝と偶然会った際に「左近が好きだった」と米朝の前で打ち明け、節マネまで始めたという。

 とにかく声がいいところからレコード吹込みを率先して行い、こちらでも高い人気を集めた。100枚近くレコードが残っており、十八番の殆どを吹き込んでいる。

 日文研の浪曲データベースで聞く事が出来るので、「玉のような美声」を知りたい方は是非とも。

 1928年9月20日、JOAKに出演し、「天野屋利兵衛」を放送。ついでに都々逸などの余興も演じている。

 1928年の番付では早くも松風軒栄楽と共に「別格」扱いされている。

 1931年の番付では、寿々木米若、松風軒栄楽、港家小柳丸などを押しのけ、横綱に就任。人気の高さがうかがえる。

 1934年の番付では、松風軒栄楽、港家小柳丸と共に巨星として特別扱いを受けている。

 1935年の番付では、篠田実、寿々木米若、酒井雲と共に「巨星」。

 1936年の番付では、木村友衛、寿々木米若と共に三人横綱に就任。

 1937年5月9日、JOAKに出演し「消防美談・渦巻く火焔」を放送。

 1938年5月1日、JOAKに出演し「誓いの乳母車」を放送。

 1938年夏、喉に不調を覚え、入院。手術を受けたがこの手術が失敗。以来寝込むようになり、自宅で療養を続けていたが当然内出血を起し、窒息で死去。

『読売新聞』(1938年8月23日号)に、

関東浪界の大家宮川左近事富永富一氏は廿一日午前九時五十分本郷区駒込曙町二三の自宅で内出血による窒息で死去した享年四十一

 と生々しい訃報が出ている。

 この急逝は関係者を驚かせ、嘆かせた。兄貴分だった東家楽燕やライバルで盟友の松風軒栄楽はその死に嘆き悲しんだという。

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