天才と狂気は紙一重の浪華軒〆友(初代)

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天才と狂気は紙一重の浪華軒〆友(初代)

 人 物

 浪華軒なにわけん 〆友しめとも
 ・本 名 新井 初太郎
 ・生没年 1893年2月12日?~1927年6月5日
 ・出身地 東京

 来 歴

 浪華軒〆友は戦前活躍した浪曲師。滅茶苦茶な奇人として知られたが、その芸や品格は名人として知られ、落語家や講談師が舌を巻いて逃げるほどの人物であったという。林家彦六の兄弟分としても知られる。

 一説によると、谷中の寺の子どもであったという。小僧として育てられたが、お経よりも芸事が大好きで、寺を飛び出しては遊芸三昧。

 幼い時から舞踊、邦楽、三味線、声色、雑芸というものが好きで、十歳にして大人顔負けの芸を得意としていたという。

 間もなく、浪華軒〆右衛門という浪曲芝居の弟子になって「浪華軒〆友」と名乗る。浪曲師としての建前上、二代目浪花亭〆太の身内としても身を寄せていたとも。

 師匠とは一歳しか年が違わず、兄弟のようであったという。『芸人名簿』によると、〆友は、「〆友 酒井安次郎(明治二〇、二、一二)」とある。本名が違うのはどうしたわけだろう。

 師匠の〆右衛門は「浪花軒〆右衛門 酒井幸太郎(明治一九、二、二六)」とある。芝清之によると師匠の名前は「酒井幸太郎」なので、あっていると思われるのだが、そうなると今度は享年が違くなってしまう。

 師匠の一個下ならば、名簿に従えば1887年生れ。亡くなった時は40歳という計算になる。しかし、谷中大行寺の墓石には「34歳」と彫られていたという。

 もっとも、ズボラな男ゆえ、生年月日などほとんど気にする事なく、適当な年齢を言っていた可能性はある。それを墓に彫り込んだのではないか。そう考えると実にいい加減話である。

 早くから人気浪曲師として売り出し、粋な関東節や啖呵で人気を集めた。正岡容は『雲右衛門以後』の中で、

二代目浪花軒〆太の一門となっていたが、直門ではない。今日も寄席を打っている高島家〆右衛門一座なる浪花節芝居。この先代〆右衛門の門下である。踊りが出来、声色に長け、清元を語り、小唄が巧い。稀に見る才人粋人だった。金襖物では「柳生旅日記」が名高く、端物では「祐天吉松」「小夜衣草紙」にその才幹を諷はれた。

 とその芸を評価している。

 浪花亭の一門の出であるものの、芸は独立独歩に近く、清元や端唄小唄を巧みに織り交ぜた哀愁のある節と、奇抜ながらも鋭い啖呵で人気を集めた。一例をあげると、

 「祐天吉松」の枕を、

 〽世辞で丸めて浮気でこねて

 と清元『喜撰』を器用に唄って見せたかと思うと、がらりとアダな節まわしで、

〽破れ衣に、破れ笠

 と、巧みに演じ分けて、江戸っ子たちを感涙させた。

 特にウレイのある節は、関東節関係者の注目の的だったそうで、後輩の春日清鶴や、跡を継いだ二代目〆友などがこぞって真似をした。特に清鶴の仇っぽい、回すような節まわしは〆友を私淑した結果であるという。

 そのくせ、反骨的な所もあり、厭なことを言われると浪花節をやらずに他の余芸で場を持たせるほどの実力もあった。『雲右衛門以後』によると、

嘗てある落語の寄席へ出演したときには、今日の都々逸坊扇歌改め燕枝が、フン浪花節が出るのかと軽蔑して云つたのを小耳に挟んで高座へ上つた〆友は、大石内蔵助は雲節で歌ふとその人らしいが、関東節で歌ふと大石の二の腕に彫り物がありさうであるとか、反対にめ組の辰五郎の場合は雲節では可笑しいとか、飄逸洒脱の浪花節漫談のみ試みてつひに浪花節を少しも語らず、最後に手踊り一つにやつてのけて高座を下り、完全に燕枝を恐縮させたと云ふ逸話がある。

 という逸話が紹介されている。なお、この「御入来」といったのは五代目左楽ともいい、左楽との話の場合は「左楽は千秋楽に己の不見識を詫び、〆友と兄弟分になった」というオチがつく。真実は不明。

 名人であったが、稀代の奇人としても知られ、ともすれば狂人とも目されることがあった。

 その逸話は正岡容や林家彦六が詳しく記している。

 まずは『雲右衛門以後』。

 聞くなら/\彼は異常性格の才人で、常に奇行百出であつたらしい。
 見ず知らずの氷屋の、オガ屑の一ぱい詰ってゐる氷蔵の中へ、いきなり盛装したまゝもぐりこんで、そのオガ屑の中へスッポリ全身を包まれ、
「モモンガー」
 と叫んだ。
 此には氷屋も驚いたさうであるが、かうした言動は、殆んど常であつた由である。
 興に至れば、深夜と云へども、先輩友人の家を訪れ、斗酒を辞せず、談論風発すること珍しくなかつた。

 また、バイオニアレコードに吹きこみをした際には「吹込み料はいらねえよ」と啖呵を切って、関係者を驚かしたという。正岡は「面目躍如たる」と激賞している

 兄弟分だった林家彦六は『噺家の手帖』の中で、

 これには愉快な話があって、私の義兄弟に浪花軒〆友という大変な芸は名人だけれども、 人間のなんと言ったらいいか上っ調子な、江戸っ子調子というか……本当の江戸っ子てえのはああいう者だろうと思われるような男が いてくれましてね。どの位江戸っ子らしいか ってえと、大家と喧嘩をして、「こんな家に住んでてやるかい」てんで、その時分には大八車をどこでも貸してくれたもんで、それを十台ばかり借りてきて家財道具一切を積んじまって、それから家を探しに出たってえ人で……一事が万事、実にすることなすことが江戸っ子過ぎました。
 それが二代目(※圓朝を継いだ三遊亭円右)さんのお弔いの時に
「天下の名人だから俺は悔やみに行くが、義さん一緒に行っとくれよ「ああ、行きますよ」てんで、円右師匠の家へ行ってみると、初代の円歌さんと上方から来た右女助さんと売れっ子の二人が施主になって、とっかいひっかい悔やみに来る人へ応接に暇なしという位、二階と下にわかれて挨拶をしていました。
 勿論その時分ですから、博打が公然と開帳されて、二階も下もその賭場の華々しいことてえのはたいしたもんです。〆友はそこへ行って少し悪いことに手を出していたが、いくら持っていたんだか、持ってたものを皆取られちまいやがって、「畜生、ふざけやがって 俺の金を取りやがった。取り返してやりてえんだが、ちょいと俺の家まで使いに行ってくれよ。五百円ばかり持って来てくれ」「こんどは一万円持って来てくれ」「こんどは二万だ」てんで、私をたびたび金の使いにやって、とどいくら位か、総計二、三十万じゃきかない、五、六十万も取られちまったかなあー。そのうちに夜が明けてきた。
「おお、夜が明けてきたなあ。夜が明けりや、こんなことをやるが馬鹿はねえから、取られっぱなしだけど、まあ、気色は悪いか、けえって一杯飲もうよ。……どうも俺はここへ来て目が出ねえ。義さん、帰ろうよ。親不孝な奴にゃかなわねえ」
 うまいことを言ったもんで、円歌さんも右女助さんも二代目の円朝さんは親同様。その親の死んだお通夜に博打の胴を取ろうてんですから、親不孝でないことはない。その親不孝な奴にはかなわねえてんです。
 とうとうその取られた金の勘定はいくらあったんだか、そんな勘定はしねえですんじまいましたが、そういうくだらない人間もいたんでさあねえ。昔は世の中が面白かった。

 こういうことを年中していたのだから、一部関係者からは愛され、一部関係者からは蛇蝎の如くに嫌われた。

 そのくせ、真面目な所もあり、連続口演の際、山場に至ると突如席をすっぽかす。客が心配していると次の日には復活し、正装で比例を詫びた上で山場をたっぷりと演じ、観客を陶酔させた――という計算高い一面もあった。

 正岡容は「何も彼も心得てやつてゐたづぼらなのだつた。余程、聡明な男だつたと云へよう。」と評している。

 1922年に山田春雄の斡旋で、当時の三遊亭円楽――後の林家彦六と兄弟分を結んだ。二人は損得を超えた感情を持ち、最期まで仲良くしていたそうである。関東大震災で焼け出された彦六の面倒を見たのが〆友であった。そのことを彦六は生涯恩にしており、代わりに〆友の墓を建ててやった。

『都新聞』(1924年6月24日)に、

 ◇山田興行部(山田春雄)が斡旋し、それに浅草の新門が肩入れをして此の世日に浅草の江戸館で三遊亭圓 楽浪花軒〆友の二人会がある。その裏のお話し。
 ◇オイ兄弟と始めは仲良くしてみても、一方が運に叶ひ売り出し、一方が不遇で下積になると、きのふの兄弟分が忽ちにして他人になるのが多い。〆友、圓楽は一昨年、兄弟分の杯をした。その後見が山田春雄といふ人。圓楽は義理の父と実の母を抱くて孝養怠りなく、それに女房子もあって中々生活は一通りならず骨が折れる。昨年九月、友も圓楽も大地震で焼出されたが、〆友は新谷町に自分の家作がありながら其処へは圓楽親子夫婦を住まはせ、「なんの、俺には子供もねえんだからこれで結構だ」と、北仲町の女房の実家に居候生活を続けてゐる。圓楽はソレが気の毒でたまらず、何として友のために家作を明け渡したいが、今の場合どうも出来ず済まぬくといってゐた末、引越賃を稼ぐ心を決めた。〆友は兄弟分の事、ヨシ俺も一番スケやうと、此二人会が成立ったといふ訳、美談ではないか。

 長らく人気を保ち、寄席の大スターとして君臨していたが、関東震災以降は長らく浴び続けた酒や不摂生がたたり、病気に苦しんだ。

 1927年に、34歳の若さで死去――と伝えられるが、享年には謎が残る。道楽三昧だったためにロクな財産もなく、葬儀も上げられなかったようであるが、弟分の林家彦六と、〆友・彦六共に懇意にしていた的屋の山田春雄が中心となって、葬儀を上げたという。

 後年、二代目〆友が誕生した際、関係者が集って再法要を行い、谷中の大行寺に遺骨を納めたという。時に1933年のこと。

 そのため、墓石には、施主として二代目〆友、蝶花楼馬楽(彦六が当時名乗っていた名前)、山田春雄の三人が刻まれている。

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