独立独歩の天狗・浪花家辰丸(三代目)

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独立独歩の天狗・浪花家辰丸(三代目)

 人 物

 浪花家なにわや 辰丸たつまる
 ・本 名 矢野 基行
 ・生没年 1901年3月17日~1977年4月2日
 ・出身地 東京小石川

 来 歴

 浪花家辰丸は戦前戦後活躍した浪曲師。独立独歩で一枚看板を掲げ、大名跡「浪花家辰丸」を襲名するのに至った。大らかな芸を得意とし、嘘か本当かわからないジョークや大法螺で人を煙に巻いた所から「天狗の辰丸」というアダ名がついた。

 経歴が『東西浪界写真名鑑』に出ていた。

 本   名 矢野基行
  生年月日 明治三十四年三月十七日
 出 生 地 東京市小石川
 師   匠 独流
 藝(十八番)股旅草履、木曽路の国定
 趣   味 読書、哲学
 初 舞 台 二十二才

 芝清之の『浪曲人物史』によると、三兄妹の長男で神戸の中学に進学。この神戸時代に、宮崎滔天・伊藤痴遊一座の芸を聞いて浪花節に興味を覚え、中学に通う傍らで寄席や一座に通い、浪曲の手ほどきを受けた。

 その後、学校を出て働いていたようであるが浪曲の夢あきらめきれず、浪曲師になってしまった。

 1923年冬、当時住んでいた群馬県伊勢崎市で三河家円車に出会い、スカウトされる。円車とは師弟関係を結んだわけではないが、円車はこの青年に期待し、色々芸や行儀を教え込んだという。 

 その後、円車の紹介で桃中軒雲右衛門の遺児・稲太郎と出会い、「桃中軒小雲右衛門」の芸名を許される。

 1924年3月3日、前橋の柳屋という寄席で看板披露。一切合切を円車が引き受けてくれたそうで、円車は自ら前読みとなって、小雲右衛門の売出しに力を注いだ。

 そうした関係から、辰丸は円車に大恩を感じ、生涯その存在を忘れなかったという。

 円車や関係者から覚えたネタ以外はほぼ独学で、自作自演を旨とした。時には台本を執筆したり、小説や映画から着想を得たという。

 昭和初頭に上京し、寄席や劇場に出演。その巧みな芸風が徐々に知られるようになった一方、「小雲右衛門」と芸名ゆえに桃中軒一門と軋轢があったともいう。

 彼の技量と状況を飲みこんだ一心亭辰雄により、「浪花家辰丸」の名跡を勧められ、これを承諾。襲名する運びとなった。

 1931年10月21~31日、浅草音羽座で「三代目辰丸襲名披露」を行った。一心亭辰雄、港家小柳丸、広沢虎吉、桃中軒白雲などが列席し、華々しく売り出した。

 以来、東京浪曲界の中堅として、活躍。華やかな芸風だった事から、ラジオやレコードでも人気を集めた。

『義士伝』『国定忠治』『寛永三馬術』『次郎長伝』といった古典から、『金色夜叉』『』、中には『天國に結ぶ恋』『又意外』といったキワモノも読んだ。

 1932年7月、太陽レコードより『寛永三馬術』を吹きこみ。

 1933年3月、ニットーレコードより『金色夜叉』を吹きこみ。

 1933年6月、タイヘイより『金色夜叉・お富と謙介』を吹きこみ。

 1934年3月、タイヘイより『堀部安兵衛』を吹きこみ。

 1934年3月13日、静岡放送より『股旅草履』を放送。

 1936年8月24日、長野放送より『男伊達義侠の助太刀』を放送。

 1938年5月24日、NHKより『日露秘聞・明石将軍』を放送。

 1939年6月21日、NHKより『大井川乗り切り』を放送。

 1939年7月5日、NHK愛媛より『名奉行の慈悲』を放送。

 1939年9月17日、NHKより『隅田川乗り切り』を放送。

 1939年10月、ポリドールより『天保水滸伝』を吹きこみ。

 1939年12月、ポリドールより『国定忠治・山形屋の斬り込み』を吹きこみ。

 1940年1月、タイヘイより『国定忠治・信州の巻』を吹きこみ。

 1940年4月、ポリドールより『忠治流轉祭り唄』を吹きこみ。

 1940年6月、テイチクより『信夫の常吉』を吹きこみ。

 そのほか、マイナーレーベルから十枚ほど吹き込んでいる。

 1941年7月14日、NHKより『匹夫の一念』を放送。

 1942年4月12日、NHKより『伊庭如水軒』を放送。

 1943年9月12日、前橋放送局より『大石山鹿護送』を放送。

 1945年2月10日、NHKより『真壁平四郎』を放送。

 また、玉ノ井で銘酒屋をやって手堅く稼ぐなど、商人としての素質もあったようである。

 戦後も第一線で活躍。何時までも若々しく、時にはホラを交えて相手を煙に巻く事から、ついたあだ名が「天狗の辰丸」、略して「天辰」。一種の愛嬌者・奇人としても知られたようである。

 1953年には、ピストルの不法所持という形で警察に連行されている。説教と罰金だけで済んだようであるが、この連行の影響で、弟子の辰若の真打披露がお流れになってしまうという一件があった。

 50代に入ってからは心臓病や喘息に苦しむようになり、浪曲不況もあってか、1961年の舞台を最後に一線を退いた。

 以来、持病の心臓病や喘息の療養をしながら、隠棲をする日々を過ごしたという。その頃には子供も成人し、妻子に恵まれて安楽の日々を送っていたという。

 1969年、当時不遇をかこっていた浪花家辰衛に「四代目辰丸襲名」を持ちかけ、これを斡旋。襲名を機に、辰衛は復帰をし、「四代目辰丸」を襲名した。

 同年3月、浅草東洋劇場に「四代目辰丸襲名披露」を行い、久方ぶりに舞台に出た。これが事実上の引退公演であったという。

 1977年、子どもたちに囲まれて静かに息を引き取った。芝清之は「幸福な一生を送った」と評している。

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