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天才児・吉田美芳
人 物
吉田 美芳
・本 名 田中 奈良蔵
・生没年 1895年~1927年?
・出身地 奈良県
来 歴
吉田美芳は、戦前活躍した浪曲師。二代目奈良丸の門下生の中でも指折りの優等生で前途を希望されたが、夭折をしたという。
梅中軒鶯童は『浪曲旅芸人』の中で、
美芳さんは師の奈良丸と同じ大和下市の出身、奈良丸門下 で若(現三代奈良丸)と共に双翼と謳われた人、上州高崎の資産家に入りしたと聞いていたが、思いがけなく斯かる場所での初対面、それから間もなく高崎で、若くして死んだ、惜しい人であった。一若の剛、美芳の柔、線の美しい節調は 美芳独得のもので、奈良丸の実妹で日本随一女流の大家として有名だった小奈良さんの節は美芳のものを写し取ったと聞いている。私も美芳さんの舞台だけは、ずっと前に神戸大正座で吉田久菊と合同で出演された時、一席だけ客席から拝聴したことがあるのだが、何故か頭に残っていない。むしろ久菊さんの舞台が目に映る。しかし、久菊・美芳、いずれ劣らぬ線の美しい節は聴いていて恍惚としていい気持、そんな記憶がどこやらに少し残っている。久菊節といって一時若い連中の間にもてはやされたものだ。米若君の名調、これはたしかに久菊を土台にして生まれた節だと私は思う。
御本人米若君はそう言っていないそうだが、ひっかけて揺って上げる節調、あれは久菊以前には誰人にも無かった独特の節調だから、米若節が久菊節から生まれたと言っても大きな誤まりではないと思う。
米若調のみでない、いわゆる現代調、近代調といわれる節調、リズムには久菊の匂いがどこかに感じられる。
と語っている。あくまでも鶯童の記憶であるが、浪曲界きっての博識ゆえの鶯童の事、参考にはなる。
またWikipediaなどには、『浪花節名鑑増補』を参考にした、という割には、変な事が書かれている。『浪花節名鑑増補』には生年と本名が出て居たはずだが、見ていないのだろうか。
小林清親に入門――とあるが、これも眉唾。そもそも、小林の門下には吉田美芳という同姓同名の作家がいたという。生年に入門できるような芸当があるだろうか。
実家は塗り物職人であった――と『浪曲師の生活』の中の一覧にある。元の資料は『うきよ』というゴシップ雑誌と記憶している。
少年時代に二代目吉田奈良丸に入門。「吉田美芳」となる。名前は大和の国の名所、吉野の桜と「花は三芳野」にかけたものであろう。10代で既に真打格だったところを見ると、入門は相当早いのだろう。
後に三代目を継ぐ吉田一若とはいいライバル関係であったという。一時、奈良丸は美芳に三代目を期待して、一若を破門同然に放逐する程の逸話もあったらしい。
以来、師匠の前座として全国を巡業。当時、奈良丸が雲右衛門と競うように世間に出たおかげもあって、大劇場出演が叶い、お歴々への御目通り許されるなど、比較的恵まれた修行生活であったようだ。
1910年10月10日より、名古屋末廣座の吉田奈良丸の浪曲大会の前座に出演している様子が確認できる。その時すでに「斯道の麒麟児と云はるる吉田美芳」と書かれている。
1911年10月31日、小樽森徳座に出演。10月27日付の『河北新報』の中に「一行の中には同人の秘蔵弟子、一若(十三)、美芳(十五)の二少年も加はり居て」とある。三代目奈良丸と二つ違いなら、1895年生れで確定である。Wikipediaは間違っている。
1912年7月3日から10日まで、京都南座で奈良若・高麗蔵・若駒と共に「奈良丸会」という形で出て居る。この時、活動写真と併せた浪曲で大当たりをとったとの事。
7月下旬、名古屋末廣座に出演。やる事は同じ。
この頃、吉田奈良丸から一本立ちをして巡業などを行うようになる。レコード吹込みも熱心だったそうで、黎明期から吹込み関係者として君臨している。
1912年10月には、小奈良、一若と並んで日蓄から『大石山科浪宅』を出している。
その後も吹込みを行い、数枚レコードが残っている。日文研に納められているが、なぜか聞けない。著作権は切れているはずだが。
師匠譲りの忠臣蔵や寛政曽我、五郎正宗伝など堅い読み物を得意とした。当時の関西節には珍しい高音系の人だったらしく、師匠の奈良丸の柔に色気を加えた節で人気を博したという。
その後は奈良丸の一座に出入りをしながら芸を磨いたそうであるが、成人後、どういう事情か知らないが、なぜか群馬県高崎市在住の資産家の娘と結婚し、群馬県に移住したという。
そのため、大正3年以降の住所は「群馬県高崎在」という形になっている。こうした結婚も奈良丸一門から少し距離を置かせる理由になった模様か。
1917年3月8日、サイベリヤ号に乗ってハワイへ出発。18日到着し、21日より初日開演。
その頃の新聞を読むと『勧進帳』『間重次郎』などを読んでいる。大ネタを奈良丸の前に読んで許される辺り、相当の見込みがあったのだろう。
以来、マウイやホノルルなどにも巡演。
5月3日、奈良丸と共にサンフランシスコへ到着。
5月、マウイ島で出会い一目ぼれされた女がはるばる、米国まで追っかけてきた。それで困惑する様子が、現地の新聞『新世界』(5月11日号)でネタにされている。男ぶりは良かったのでよくモテたという。
6月、奈良丸を座頭にユタ・コロラドを回る予定であったが、奈良丸は欠席。奈良秀と共に二枚看板で回る事となった。
ちなみに同年の6月22日、奈良丸は贔屓の高官たちの紹介で当時の大統領・ウィルソン大統領と対面し、日本刀を贈ってる。この対面は浪曲史の一大事件として今も名を残す。美芳自身は対面しなかった模様。
7月21日、ユタ州から戻り、コロラド近辺を巡演。
7月26日、ロッキーホード発の船で帰国した。
帰国後は奈良丸の帰朝公演するなどしたそうであるが、間もなく群馬へ戻り、一枚看板で全国巡業に出る事となる。
帰国後間もなく、まだ放浪時代を送っていた鶯童と出会っている。
ただその後は、めきめきと頭角を現した一若と違い、徐々にフェードアウトするようになり、病気を患って、1927年頃亡くなったという。
鶯童は昭和2年に死んだと書いているが本当だろうか。
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