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ハワイへ渡った日本亭義国
人 物
日本亭 義国
・本 名 ??
・生没年 ??~??
・出身地 ??
来 歴
日本亭義国は明治~大正にかけて活躍した浪曲師。東京での評判はたいしたものではなかったというが、ハワイ巡業では素晴らしい人気を博して、数年以上日本とハワイを行き来する生活を送った。元祖海外向けタレントというべきか。
経歴は一切不明。ただ明治時代には既に浪花節の世界に入っていたという。地方巡業の芸人として食っていたとみるべきか。
排日法が成立される前――移民が盛んだった明治時代にすでにハワイへ渡っている。『日布時事』(1911年5月12日号)の広告に
毎々御引立に預り難有御礼申上候扨小生儀当度日本より浪花節日本亭義国一座を招聘致し候間倍旧の御贔屓被下度奉願上候
といった広告が掲載されている。東亭梅朝という芸人も同行した。
当時、海外に来る芸人が珍しかった事もあり、滅茶苦茶な反響があったという。『ハワイ植民新聞』(1911年9月1日号)に――
○日本亭義国再び来らん 先頃当市大和座に現はれ空前の大人気を博したる日本亭義国一行は其後他島を巡回し到る処喝采を博しつつある由なるが来る十四五日の頃再び当地に来る筈にて其節は他の一座ととも連合し尚ほ女太夫梅香も出語りを為す由
演題としては『関取千両幟』『忠臣蔵』『義経記』『勧進帳』『鹿島騒動』といった古典を得意としたようである。
その人気はすさまじく1911年の秋・冬は全てハワイの日系人街や植民地を巡って、生計を立てていたという。
1912年3月には、文明座という節劇一座の客員として参加し、劇の要である浪花節を演じていた。此の一座に入ってまたしてもハワイを巡業していた。明治天皇の崩御はハワイで知ったというのだから、すごい。
1913年、文明座を離れ、旭亭梅香(妻だろうか)と共に再び一座を組んで、ハワイ各地を巡演した。
1913年末まで働いて、その年に帰国した模様。
しかし、その後消息が途絶える。あくまでもハワイという特殊な環境だからこそ光ったというべきだろうか。
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