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節真似上手の東家小燕
人 物
東家 小燕
・本 名 ??
・生没年 ??~??
・出身地 ??
来 歴
東家小燕は戦前活躍した浪曲師。東家楽燕門下であったが後年わけあって篠田実門下へと移籍している。浪曲よりも節真似がうまく、これでラジオにも出演したという変わり種であった。器用な芸人であったのは間違いない。
経歴は不明である。楽燕の弟子だったという証拠は、『読売新聞』(1928年9月23日号)の中に、
東家小燕は楽燕門下の新進で未来を嘱目されてゐます。出しものは越後伝吉を得意としますが物真似がうまく、今晩は港家小柳丸の「安中草三郎」木村重松の「関根弥次郎」篠田實の「紺屋高尾」東武蔵の「表題付け」をやります。
とあった所から。
楽燕の前座を勤めながら、芸を覚えたというが、なぜか楽燕系のネタはあまり引き継がず「越後伝吉」「紺屋高尾」「西村権四郎」「宮城野信夫」「魚屋本多」「大久保彦左衛門」など、侠客ネタや実録ネタを得意とした。
1928年9月23日、JOAK「物真似の夕」に出演し、浪曲師のモノマネを演じた。『日刊ラヂオ新聞』の中に以下のような談話がある。
『物真似の夕』ださうですね、能く子供が廻らぬ舌で「JOAKこちらは東京はうさうきよくでございます」つてラヂオのアナウンサアの真似をやつて居りますねエ丁度其の子供と同じ事です。
如何に名人の名口調、名文句を其通りに真似ても、矢張り物真似以上に出来ませんねエ。おうむがライオンの鳴き声を真似る様なもので、一度吠ゆれば百獣皆震え上がるライオンの声をおうむが真似るんぢや、サツパリ百獣慄へて呉れません。唯、おうむを飼ふ人様のお慰みとなる迄の事
私は桃中軒雲右衛門、吉田奈良丸、二代目虎吉等々浪界の諸名人の最も得意としました所を真似して御聴きに入れる積りですが、皆様は上手に真似たとお慰みになりさへすればそれで満足でございます、名人吹込みの蓄音機のレコードと比較されて、虎吉にあんな節はないなどゝ仰しやられては大変ですからなアまあ一生懸命に物真似を演じませう
1930年代、なぜか篠田実門下に移ったらしく「篠田若実」と改名した。一方で、破門移籍ではなかったらしく、「東家小燕」名義での活躍も確認できるところから、謎は多く残る。
1933年9月、先輩の東家小楽燕の一行にまざって渡米。ハワイ巡業を行っている。一行は東家小楽燕を筆頭に、東家燕造、広沢小虎丸、東家節子。
この時は東家小燕名義で参加したらしく、「篠田実門下・篠田若実こと東家小燕」という厄介な広告が打たれていたりする。
小楽燕は器用な小燕をモタレとして重宝し、一席の演目の他、客のリクエストに応じて節真似を演じさせた。当時レコードでしか聞けない芸人を巧みに真似たこともあってか、なかなか受けたという。
また、小虎丸も動物のモノマネがうまく、三味線の節子は曲弾が得意だったところから大喜利みたいな事もやっていたらしい。
『ハワイ報知』(9月30日号)の中に、
「一行中には浪界各派大家の語りぶりを真似るに妙を得た東家小燕あり、また犬や猫から鳥の鳴き声まで真似る小虎丸がゐるし三味線曲弾きの節子ありと云ふ手揃ひの一行だから余興芸が必ずや人気に投ずるであろう」
という記載があるほどである。1934年春頃に帰国。
その後も浪曲寄席の中堅として出ていたようであるが、何時の間にか表舞台から消えてしまう。徹頭徹尾謎に満ちた存在である。
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