原鶴燕から鼈甲斎へ・鼈甲斎右虎丸

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原鶴燕から鼈甲斎へ・鼈甲斎右虎丸

 人 物

 鼈甲斎べっこうさい 右虎丸うとらまる
 ・本 名 斎藤
峰三郎
 ・生没年 1885年1月4日~1938年以降
 ・出身地 ??

 来 歴

 鼈甲斎右虎丸は戦前活躍した浪曲師。明治末から活躍した古参芸人で、一時は「原鶴燕」を名乗るほどの実力者であったが、なぜか後年虎丸門下に移り、「鼈甲斎右虎丸」と改名。そのまま一枚看板になることなく、暮らした。

 経歴は『読売新聞』(1938年7月22日号)に詳しい。

 鼈甲斎右虎丸は初代浪花亭綾造(駒造)の門下で浪花亭綾太郎の兄弟子、浪花亭小綾、原鶴燕を名乗り大正十一年師匠歿後二代目虎丸(鶴堂)に師事し右虎丸となつた、門下から二代目原鶴燕、天中軒左雲月(女流)を出した浪界四十年の古看板だがけふが初放送、曲師は故木村重好の妻女好子である

 浪花亭駒造は、浪花亭駒右衛門の弟子で明治中頃~末に活躍した人気浪曲師である。天才的な技芸を持ち、関東節の革命児として人気をほしいままにしたが、夭折した。

 「綾太郎の兄弟子」とある所から1903年の入門以前なのは確実であろう。1938年時点で40数年と考えると相当な年期である。

 1907年に師匠が死去。その前後でどういうわけか、原一門に移籍して「原鶴燕」と改名している。

 この鶴燕時代が絶頂だったらしく、寄席を掛持ちするほどの人気があった。『芸人名簿』にも「原鶴燕」名義で登録されている。

 さらに、二代目鼈甲斎虎丸の門下へ移り、「右虎丸」と改名。

 寄席を中心に活躍を続けたが、どういうわけかあまり人気は高くなく、原鶴燕時代よりも活躍する事はなかった。しかも番付には「原鶴燕」として出て来るものの、「右虎丸」としての活躍が殆ど確認できない不思議な存在でもある。

 1938年7月22日、JOAKに出演し、「梁川義人伝」を放送。

 しかし、この放送一回きりの上に「右虎丸」という名義での番付掲載が確認できない――実に不思議な存在である。

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