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志仏門にあり・文珠軒松月
人 物
文珠軒 松月
・本 名 藤本 宇吉?
・生没年 1883年2月~1914年?
・出身地 兵庫県 淡路市
来 歴
文殊軒松月は浪花節黎明期から大正にかけて活躍した浪曲師。淡路島から身を起し、一時は宮川松安と並んで「三羽烏」と称えられるほどの人気を集めた。円満人徳な性格で、未来を期待されたものの、大正時代になって引退をして、仏門に入ってしまったという。
経歴は『浪花節名鑑』に出ている。
文殊軒松月(本名・藤本宗吉) 氏は明治十六年二月兵庫県淡路津名郡中川原村稲田藩に生る。幼少の頃より演芸を好み廿歳の頃松朝の門に入り宮川松月と名乗り随って品行方正にして大いに賛辞を与ゆるの価値あり芸道又発展をなしつつあり。四十四年文殊軒松月と改む。
ただ、上の記載がすべて正しいかと言われると困る。戦後に出された『地方史の新研究 淡路中川原村史』には
厚浜の藤本宇吉は、幼少より浪曲を好みて十八歳で、阿万の浪曲師宮川松朝の弟子に入り、専ら修業ありてより松月と号して、大阪親友会に入り、大正元年頃には宮川松安と共に浪曲界の花形となりて、大好評を博されつつ諸国を巡遊したものだったが、松安よりも評判がよかったものである。
と、本名から齟齬が生じている。一応後者を採用したが、「宗」と「宇」は似ていない事もないのでどちらが誤記をしている可能性が高い。
師匠の宮川松朝は浮かれ節時代の生き残りというべき芸人で、凄まじい人気があるわけではなかったものの、人材育成がうまく、宮川松安、宮川松雪といった逸材を輩出している。
「宮川松月」と名付けられた彼は、師匠譲りの「宮本武蔵」「江藤新平」などといった豪傑物を読んだほか、仏教的な帰依からか「日蓮記」「佐倉義民伝」といった物まで読んだ。なかなかの美声と品のいい芸で舞台に上がり、大阪ではひどくもてはやされたという。
1904年には日露戦争に応召され、出征。『地方史の新研究 淡路中川原村史』に――
日露戦争に応召して、満洲各地に転戦ありし当時、戦地では芸人が少なく、師団各隊の慰安演芸にも招かれ、大好評を拍したもので近接師団にまで、招かれる有様で、戦場に於ても人気者であった。
とある。この苦労譚は戦後に大きなアドバンテージになったという。
1906年に復員し、凱旋公演を行った。
1911年頃、「文珠軒松月」と改名。この頃より仏教的な帰依を見せ始めるようになったという。
1912年5月、「名人浪花節」という本の中で「佐倉曙義民伝木内宗吾」という浪花節速記を掲載している。
1912年の「落語と浪花ぶし」という雑誌の中によると「大阪の三羽烏と謳はるゝ宮川松安、宮川松月、宮川松雪が任ぜられてゐる。」と、その人気の高さを伺える。
しかし、大正に入ると病気がちになったらしく、浪花節の高座から離れるようになってしまった。『地方史の新研究 淡路中川原村史』に――
明治三十九年凱旋後も、大阪に於て活躍せられたが、病気となり浪曲界を退き、仏門に入って後世を送っている。
1914年の『浪花節名鑑』では一枚看板として記録されているが、その後間もなく病のために浪曲界を退き、仏門に入門。世俗との縁を切って余生を送ったという。
梅中軒鶯童『浪曲旅芸人』によると「大正3年没」とあるが、これはあまり信頼できない。引退した年月とみるべきか。
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