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新作浪曲の巨匠・京山呑風
人 物
京山 呑風
・本 名 井上 末義
・生没年 1889年~1945年8月10日
・出身地 広島県
来 歴
京山呑風は戦前活躍した浪曲師。師匠・京山若丸の芸風をもっともよく受け継ぎ、新作浪曲で独自の境地を展開し、関西浪曲界随一の大看板となった。人望人格人気の三拍子が揃い、未来の浪曲界の大御所が約束されていたが、敗戦直前に輸送船の中で急死を遂げた。
その経歴は、『読売新聞』(1931年7月29日号)に詳しい。
氏は明治二十二年の生れ。広島中学卒業後間もなく京山若丸師の門に入り研鑽十数年今や若丸の二代目をなるべき人である。性は至つて淡泊で書生肌、而も人格もあり人に親まれる質である。最近は岡山に豪壮な邸宅を構へてゐる。門下に俊才多く桃山神風初め十四五名の逸材を出してゐる。氏は新作物を得意で中でも川崎工学士の立志伝は十八番である尚又「桂小五郎」「西郷隆盛」等の維新物にも得意である現今親友派組合の副取締の重職にある。本名井上末義。
中国新聞特設サイト『「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (十八)柳橋界隈(その2)』によると、「広島明道中学の二年生からこの道に入り」という。15歳の頃の入門だろうか。
卒業後、正式に京山若丸の弟子となり、39人目の弟子となった。凄まじい数である。
当時としては珍しいインテリで、書生肌の気質は多くの大幹部に可愛がられ、メキメキと頭角を現す事となる。非常に理知的な性格だった事もあり、若丸が得意としていた『桂小五郎』『西郷隆盛』などといった新作をたくみに学び取り、独自の呑風節を練り上げた。
また、新作にも強く『川崎工学士』『維新の元勲』『倫敦土産』『母心』などを練り上げ、舞台で披露した。理知的な高座も相まって非常に品のあるものだったという。
如何にもスマートで、理知的な姿は学生連や女学生の注目の的だったそうで、女流浪曲師や曲師まで彼を一目見ようと出入りする程の美貌振り・人格者ぶりを発揮した。
京山若丸の良き薫陶、更に当時の大看板たちに揉まれる形で、メキメキと頭角を現した呑風は、すぐに一枚看板となり、関西各所の寄席に出演。20代にして既に大家の風格を持っていたのだからすごい。
1913年には早くも、大阪浪花節雑誌社より『乃木将軍信州紀行』を発売している。
1919年、親友派組合の改選で評議員兼理事に就任。名実ともに大幹部となった。
この頃、京山吾一、八洲東天と共に「三兄弟会」を結成し、方々を巡演。高い人気を集めた。新作の呑風、ケレンの吾一、新旧両刃の東天とバランスが良かった。
1927年1月7~10日、名古屋放送より「川崎工学士」「明治の元勲」を4日連続放送。
1927年7月18日、名古屋放送局より「友情」を放送。
1928年12月18日、徳島県富田浦町に「極楽座」なる劇場を設置。そこの座主となった。この座は後に「中座」と改め、演芸や小芝居を上演していたが、戦時中の1941年に道路新設のために廃業を余儀なくされた。
この頃、親友派組合の改選で副取締役に就任。
1929年7月17~19日、大阪放送より「霧都の広瀬」「男嫌いの桜家梅吉」「大西郷」を放送。
ただ、放送やレコードにはあまり熱心ではなく、後年親友派とJOBKの出演拒否問題などに一枚噛んだりするなど、どこまでも舞台の人であった。
1945年春、京山雪州、宮川松安、京山若春と共に満洲へ出発。敗戦直前の満洲戦線を回ったが、同地で病気で倒れ、引揚げの病院船に乗ったという。そこで松安などと生涯の別れとなった。
その後の消息は長らく不明で「船が沈められ、呑風は船もろともに沈んで死んだ」などとまことしやかに語られていたが、広沢瓢右衛門と芝清之が調査した結果、「8月10日」に死亡しており、亡骸は船上での簡易葬儀の後に水葬されたという。
その関係者が呑風の遺品を持って、故郷の広島を訪ねたところ、呑風の老母と姉は原爆で被爆死を遂げており、一家が敗戦直前にこの世から消滅する――という悲劇もあったという。時代に翻弄され、時代の荒波の中で死んでいった――と評するべきだろうか。
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