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鉄道省官僚から浪曲師・東家燕太夫(二代目)
人 物
東家 燕太夫
・本 名 安藤 延雄
・生没年 1903年11月~戦後?
・出身地 東京?
来 歴
東家燕太夫(二代目)は戦前活躍した浪曲師。東京浪曲界のプリンス・東家楽燕の弟子ながら関西へ移住し、浪曲親友派で一枚看板になったという珍しい芸人であった。妻は浪曲三味線の第一人者として知られた東家菊栄である。
元々は鉄道省勤務のお役人であったが、浪曲が好きで鉄道省職員の身を捨てて浪曲師になったという変わり種であった。経歴は『読売新聞』(1935年3月31日号)に詳しい。
東家燕太夫は廿二歳の時鉄道省のお役人から東家楽燕の門下に入り前名が燕如、五年前燕太夫となり関西親友派の中堅売れっ子になつた、三年前自ら座長となって九州巡業中自動車が断崖から墜落し、燕太夫だけ九死に一生を得た幸運児
1926年2月に入門。「東家燕如」と名付けられて前座修業に就いた。
翌年初舞台を踏んで以来、師匠の公演や寄席の前座としても公演を行うようになる。
師匠譲りの「義士伝」の他、「召集令」「乃木大将」「大尉の娘」などを戦争美談を得意に演じていた。楽燕張りの美声を売りにし、相応の人気はあった。
1930年に二代目東家燕太夫を襲名し、一本立ち。詳しい襲名披露の経緯は不明。どういう経緯があったのかよくわからないが、楽燕の元を離れ関西に移住し、親友協会の浪曲師となった。
関西では相応の売れっ子だったらしく、楽燕節を継承する関係者として重宝された。
1930年10月12日、広島放送に出演し、「乃木大将」を放送。
1931年に初代廣澤虎造(三代目虎吉)の姪・井上菊栄を娶った。この菊栄は浪曲三味線の名手として知られており、夫婦で浪曲稼業に勤しむ事となった。
『日本演芸家名鑑』の東家菊栄をみると「昭和6年 東家燕太夫と結婚、相三味として苦楽を共にする」とある。
1931年の番付では「新進花形」として東家小雀、橘雲平などと共に紹介されている。
1932年、巡業先で事故に遭遇し、座員が死に絶える壮絶な経験をする。当人も大怪我をするも九死に一生を得た。
1932年7月12日、熊本放送より「俵星玄蕃」を放送。
1933年10月11日、大阪放送より「久馬御薬献上」を放送。
1934年4月27日、大阪放送より「橘英夫」を放送。
1934年の番付では「幕ノ内候補」として、東小武蔵、浪花亭奴などと共にランクイン。
1935年3月31日、全国中継の「青年浪花節の午後」に出演し、「唐人お吉」を放送。共演は寿々木米春、木村友春、吉田日の丸。
1937年の番付では「幕ノ内候補」。
1938年の番付では、「新進と中堅」として記録されている。
1940年8月4日、NHKに出演し、「橘英夫」を放送。
1941年頃より、師匠の楽燕と二枚看板で全国巡業をするようになる。菊栄はこれを機に楽燕の三味線を弾くようになった。
しかし、戦時中より番付から名前が消える。理由は不明。体調不良になった模様か。
妻の菊栄は、戦後も第一線で活躍し、吉田奈良丸、真山一郎と名人上手を演奏し続けた。
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