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京山小圓の番頭・京山円遊
人 物
京山 円遊
・本 名 杉本 熊蔵?
・生没年 ??~1931年
・出身地 ??
来 歴
京山円遊は戦前活躍した浪曲師。雲右衛門、奈良丸と人気を競い合った京山小圓の番頭としても活躍したが、番頭になる際にいろいろとトラブルを起こし、作家の山本禾太郎から恨まれる羽目になった。
詳しい経歴は不明であるが、正岡容『雲右衛門以後』によると「隠亡焼」をやっていた(墓守と火葬業者を兼ねたもの。江戸時代までは賤民として扱われた)という。出自はあまりよくなかったのかもしれない。それ故に芸能界に飛び込んだのだろうか。
京山小圓に弟子入りし、京山円遊と名乗る。長らく師匠の一座の幹部としてついて回り、師匠からの寵愛や信頼を受けたという。
1916年頃、支配人の後継者を巡る争いで、円遊が名乗りを上げ、就任する事となった。この一件は京山小圓一座を揺るがす大騒動になったそうである。梅中軒鶯童は『浪曲旅芸人』の中で、
近頃内紛を醸していた京山小円先生の一座が、永年の支配人であった御三間市太郎氏の引退となり、後継支配人杉本熊蔵(京山円遊)の就任を不満として、御三間氏と一蓮托生で一座を離脱した副支配人の立仙香、秘書として小円師に書道を教えていた山本桃村、両君が飯田のおじさんに依頼して、差当りの仕事として男女合同の一座を組織し、突然この組に私も参加する始末となった。この事は私の知らぬ間に飯田のおじさんが勝手に決めてしまった話で、私は乗込み当日まで全然知らずにいたのであった。
と記している。
この一件は、後の推理作家・山本禾太郎も巻き込んでいたそうで、後年山本は自著「ざんげの塔」の中で小円一座を離反した理由を詳しく書いている。
その辺りの事情は、「瑣事加減」の「山本禾太郎「東太郎の日記」」に詳しい。
山本は、円遊を「圓光」と一応の改名したうえで、その印象を「幇間みたいな圓光」とこき下ろしている。この一件で京山一行を出ていく羽目になったので、悪く書かれるのは当然なのかもしれない。
1917年1月、正式に小圓の支配人へと就任。これを機に山本禾太郎たちは一座を離反してしまった。
その後も、支配人をしながら舞台に上がっていたようで、1917年9月17日、南座で行われた「京山小圓一行浪花節大会」では中トリやトリ前といったいいポジションで口演をしている。「荒木又右エ門」「光秀と秀吉」「奉書試合」などといった武芸ものを得意としたらしい。
その後は師匠の支配人をしていたようであるが、1929年に師匠をなくしてからは消息不明となる。『浪曲旅芸人』によると「昭和6年没」との由であるが――
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