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春野百合子の師匠・小雀春光斎
人 物
小雀 春光斎
・本 名 ??
・生没年 ??~1929年以前
・出身地 佐賀県 千代田町
来 歴
小雀春光斎は浪花節黎明期に活躍した浪曲師。「浮かれ節」と呼ばれた頃からの看板で、九州では一角の勢力を持つ実力者であった。春光斎の姪が初代春野百合子で、一時期百合子を弟子分・養子分にして全国を連れまわしていた事がある。
経歴等は一切不明であるが、小沢昭一『放浪芸雑録』の中における「春光斎柳風」なる弟子の回顧によると、「師匠の小雀春光斎も佐賀県千代田の出身であった」。
「小雀」という屋号は、浪花節黎明期以前の一大ブランドだったらしく、1880年代の新聞広告でも見受けられることができる。春光斎と同一人物か不明であるが、『山陽新報』(1881年6月17日号)に、
◇備前岡山区野田屋町・柳川座花海軒にては、先日より小雀定吉がうかれぶしを興行し、毎夜の入りも至極と繁昌する様子なるが……
とある。他にも小雀大吉、小雀天狗、小雀小玉、小雀南玉、小雀雲龍、小雀定玉斎などといった名前も初期の新聞で確認できる。浮かれ節のグループだったのだろう。大吉は二代目まで続いている。
春光斎という仰々しい名前を持っている所を考えると、小雀某という名前から襲名した可能性が高い。
小雀一門は明治初頭の九州では根強い人気を持っており、初代宮川左近と並び立つほどであった。
春光斎の妻の妹が同じ浮かれ節の都三光に嫁ぎ、三光とは義兄弟分であったという(『放浪芸雑録』)。妻姉妹もまた三味線弾きだったらしい。
1900年、春野百合子が誕生。本来は姪にあたるが、彼女を養子分として引き取り、養育する事となったらしい。その関係からか「小雀春光斎は春野百合子の父親」と書かれる事もある。
長らく博多普賢堂に居を構え、芸人横丁となっていた普賢堂の親分のようになっていたという。ここで百合子を育て、「小雀みや子」(花子とも)と名付けた。
1903年頃、迫日出雄が弟子入り。ただし短期間で雲右衛門門下に移籍している。
――春光斎から雲右衛門のところに行った訳は
迫 春光斎は九州師の東節といって、吉田大和之丞の二号(先代春野百合子)のお父さんだ。この人の節が難かしくて、やれない。雲右衛門に紹介して呉れといってね。”そう手軽に行くもん””と云っていたが、一週間ほどで雲右衛門先生のところに連れて行ってくれたんじゃ。
節は独特の節回しを持っていたらしく、習いきれないのも要因だったようである。そんな節まわしの多様さが後の浪曲に繋がるわけだが、小雀一門が遂に浪曲界の主流になり得なかったのは、こうした技術の難しさにあったのかもしれない。
多くの弟子を抱えたというが、中でも百合子の才能は素晴らしかった。声も良く、顔も良い彼女は9歳にして春光斎の前を読むほどであった。『北海タイムス』(1910年8月10日号)に、
◇昨夜より札幌座に開場の小雀春光斎一行は九州に於て評判の浪花節なるが、「小町奴」は得意のものにて、二枚目の当年九歳なる少女花子は非凡の美声家なり。
と紹介されている。
1911年頃、春光斎柳風が入門。『放浪芸雑録』曰く、「私は大分県の玖珠の出身ですが、七回も家出して、十八の年に小雀春光斎のところに入門した。ふつうなら十円ぐらいの入門料を取られるところだが、紹介者がよくて入門料をとられなかった。」
その後も普賢堂で暮らし、九州一円で活躍を続けていたという。春野百合子は独立し、自身も老いたこともあって、一線から退いた。
理由は不明であるが、弟子に二代目小雀春光斎を譲り、没した模様。1929年に二代目がラジオに出ている所を見ると、それ以前に没した模様か。
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