ミハルと読んでほしかった森三陽

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ミハルと読んでほしかった森三陽

 人 物

 もり 三陽みはる
 ・本 名 引田 末次
 ・生没年 1909年頃~1990年代?
 ・出身地 佐賀県 小城郡 三ヶ月町

 来 歴

 森三陽は戦前戦後活躍した浪曲師。九州の浪曲師として出発し、関東へ移って看板を上げ、戦後は関西で活躍した――という芸歴の長い人物であった。当人は「森三陽」を「ミハル」と読ませたかったそうだが、いつの間にか「サンヨウ」が定着し、それが通り名になってしまったという。

 長い間、経歴の良くわからない人であったが『月刊浪曲』(1991年12月号)の西浦実「大鵬幸吉と森三陽」という記事に経歴が出ていた。

 曰く、「本名は引田末次、八二歳である。」――逆算すると1909年頃の生まれか。

 元々は九州浪曲界で修業をし、伝手を頼って東京に出て来た――という変わり種であった。

 三陽は、佐賀県小城郡三ヶ月町の生まれ、九州を地盤にしていた京山虎丸の門に入り、始めは京山虎若丸、のち筑紫九州男とも名乗り、京浜会に入る頃、森三陽となり、名前は「ミハル」 と読ませたのに、興行師も客も 「サンヨウ」、NHKのアナウンサーまで、「ミハル」と振りガナしてあったのに、初放送の紹介に「サンヨウ」と読み違い、やはり無理のない呼び方に落ちついた苦心談も面白かった。

 と経歴が記されているのがありがたい。

 この京山虎丸は、二代目であろう。二代目虎丸は、京山恭一の孫弟子に当る(初代が恭一の弟子)。初代は1910年に引退し、その後目を二代目が襲ったが、この二代目は関西を離れ、九州を地盤にした人物であった。

 一方、『上方芸能88号』(1985年6月号)の「浪曲研究会公演記録」では

〈芸歴〉昭和二年九州東三光に入門、昭和六年独立、十五年森三陽と改名。

 と少し違った事が書かれている。

 東三光は春野百合子、京山華千代の師匠であり、育ての父でもある。系図だけでいえば彼女たちの弟弟子に当るというわけである。

 長らく九州を中心に活動していたというが、30代に入って上京。東京の浪曲事務所に籍を置き、修業を重ねる事となった。

 正岡容『日本浪曲史』によると、東家楽浦の一座に長くいたそうで、普通に上手かったという。ただ、節が鷹揚すぎる所があり、関東では遂に受け入れられなかったという。

森三陽は、戦争まで東家楽浦の一座にいて、明朗な節調と諧謔とで、「島田一郎」その他、明治物が得意だった。ただアテ節がないゆえ、その点がより進出していくには難点だとおもったが、戦後、関西にある三陽もやはりアテ節は貧困だろうか。

 それでも戦後は一応の幹部に取り立てられ、NHKなどにも出演するようになる。

 1946年8月25日、NHKに初出演し、浪曲を放送。

 1947年5月2日、NHKに出演。

 1947年8月10日、NHK第2に出演。

 1949年9月12日、NHKに出演し、「海の強者」を口演。

 1950年の番付では「希望」として玉川次郎、広沢虎之助(三代目虎造)と共に若手扱いを受けている。

 しかし、この年に東京での活躍に見切りをつけて関西へ移住。以降は関西の浪曲師として取り上げられるようになる。

 1954年の番付では「西方・前頭七枚目」。

 1955年の番付では「西方・前頭八枚目」。四代目吉田奈良丸と真山一郎に挟まれている。

 1958年7月26日、朝日放送の「第二十四回浪曲研究会」に出演し、「三浦孫次郎」を口演している。

 1961年の番付では「西方・前頭三枚目」。

 この頃より浪曲不況に襲われるようになり、森三陽もまた大舞台から地方巡業へと移り変わっていく。その中で琵琶湖観光ホテルの専属芸人として契約を結んだ。

 1964年の番付では前頭二枚目。

 この頃、琵琶湖観光ホテルの専属としてホテルに就き、爾来20年近くこのホテルの名物芸人として稼ぐようになる。相応な待遇やもてなしを受けた他、祝儀や食事も出たため、下手な仕事を受けるよりも余程儲かったという。

 晩年の様子は『月刊浪曲』(1991年12月号)の西浦実「大鵬幸吉と森三陽」に詳しい。

 森三陽はいずこに
 民放の浪曲ブームは昭和三〇年前後、LPレコードを各社が発売を競ったのが五〇年前後。大鵬の最盛期は四〇年代だから、浪曲に取り上げてないが、ただ一席、ラジオ大阪からの早期浪曲で「大鵬とその母」をキャッチした事があった。しかも演者は、珍らしや三陽で私は飛び上らんばかり喜んだ。森三陽とは実に懐かしい名前だ。
 一九年の秋、中学の寮の風呂釜故障で銭湯へ外出入浴の許可が下りた。脱衣場で見た彼のポスター。名前の書き(今で云うキャッチコピー)に、「驚嘆の美声!円転恍惚のみはる節」とあった。三陽と書いてミハルと読ますのも知り、ともかく無性に彼の浪曲を聴いてみたい願望が燃え上った。
 上演日の夜、寮からの脱走も考えたが、運悪く当夜の舎監が、教練を受け持つ一番規則にきびしい配属将校、泣く泣く断念する他はなかった。
 不良中学生の三悪である酒、タバコ、異性との不良交遊には、一切無関心だ ったが、浪曲や映画への誘惑には弱く脱走歴は前科五犯、印象に残る二件の一回は、吉田奈良千代一行を聴きに行った帰りの木戸口で教師とバッタリ鉢合わせ。(なぜか、おとがめなし)
 あとの一回は、澤村国太郎(長門裕之津川雅彦の実父) 月宮乙女・澤田清のスターの実物を始めて見た夜の感激、挨拶と舞踊だけだったが……。
 終戦後、引揚げて来て札幌の興行社に入った頃、京浜会という浪曲事務所から浦太郎、三陽、天中軒富士子、東武蔵等のポスターや大入り袋を何度か見た事がある。
 実演も放送も一度も聴かない中に、 森三陽は関東浪界から姿を消した。 逃がした魚は大きいというが、聴きのがした浪曲への執着も、あとあとまで残り、見果てぬ夢を追う心地だった。

・意中の人と初対面
 五八年、大阪方面へ旅行の一日、大津市雄琴にある琵琶湖観光ホテルに一 泊した夜、同ホテルのショーに、何と森三陽が着流し姿で登場、器用なギター一本の伴奏だけで「身替わり三度笠」の二〇分程の浪曲とサービスの演歌数曲を聴いた時には、文字通り吾が目と 吾が耳を疑った。
 林伯猿の「愛憎峠」だったか”楽屋行くバカ訪ねるべからず”といった、 みだりに楽屋訪問はつつしめとの一節があったが、あの夜だけは私は我慢出来ず、その上、自室に三陽ご夫妻を招き、食事を共にしながら二時間余りも浪曲昔ばなしに花を咲かせた。 
 三陽は、佐賀県小城郡三ヶ月町の生まれ、九州を地盤にしていた京山虎丸の門に入り、始めは京山虎若丸、のち筑紫九州男とも名乗り、京浜会に入る頃、森三陽となり、名前は「ミハル」 と読ませたのに、興行師も客も 「サンヨウ」、NHKのアナウンサーまで、「ミハル」と振りガナしてあったのに、初放送の紹介に「サンヨウ」と読み違い、やはり無理のない呼び方に落ちついた苦心談も面白かった。
 二五年、関西に移ってからも、一流大家に伍して地方巡演の浪曲大会に、たびたび加入、酒井雲から「あなたの声は浪界の為にも貴重な財産、いつまでも大切に」と云はれたのが、生涯の感激だったという。
 三九年頃から、夫婦のみで温泉ホテルやセンター巡演に切り換えて約二〇年、年齢も七六歳と聞いて驚いた。お顔もポスターや番付けで見た写真と大差なく、何よりも舞台での中カンの美声、歌謡調の妙節、巧みなタンカ。それに浪曲の三味といささかも劣らぬ夫人のギター伴奏。フシのファンばかり でないお客にさえバカ受けだった。
 嬉しいかな、森三陽は健在だった。

 1989年頃、80才を機に舞台を退き、奈良県吉野郡で静かな余生を送ったという。

 この日を縁に年賀状や暑中お見舞を交換しているが、八〇歳を期に、仕事から退き、奈良県吉野郡大淀町で適の日々を送っておられる由である。
 本名は引田末次、八二歳である。

 その後もしばらく健在だった事を考えると長命筋だったようである。

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