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片腕の浪華蓉峰(初代)
人 物
浪華 蓉峰
・本 名 北村 梅吉
・生没年 1880年2月1日~1961年2月4日
・出身地 岐阜県 大垣市
来 歴
浪華蓉峰は戦前活躍した浪曲師。浪花亭峰吉門下の俊英で、私淑する俳優・伊井蓉峰から「蓉峰」の名を拝借したという異色の人物であった。
祖父の吾妻喜代治は元々大垣藩の藩士であったが、倒幕と戊辰戦争で零落し七色講談(浪花節の前身の一つ)語り「東語光」になったという異色の人物であった。
因みに祖母方の大叔父(祖母の兄)はかっぽれの名人と謳われた梅坊主である。芸人としては名門の一家であった。父は北村増次郎という。
なぜか「北村能章」と名乗る資料もあるのだが、ここでは墓碑録に従った。
幼い頃、故郷にやって来た初代鼈甲斎虎丸の浮かれ節を聴いて、芸人を志し祖父の語光に入門。「東駒丸」と名付けられ、浮かれ節を演じるようになる。
そのあたりの経歴を晩年に『痴遊雑誌』(1936年4月号)の中で語っている。以下はその引用。
浪花節に就て 北海道 北村大巴
石谷華堤氏遺稿浪曲漫語に就て所蔵の古書及小生青年時代、初代春日井文の助師及び東語光(私の祖父)の談、御参考までに、
私祖父は大垣戸田家の臣にて奥州白河口の戦に参加して一人生残りたる吾妻喜代治といふ者にて、後チョンガリ語りとなり東語光と名乗り、梅坊主の妹タマを妻としてゐた者で、私が十六歳の時、祖父は私を名人駒吉の門下にせんと連行、一時浅造師の許に預けられ蓉峰と名命されました、
浪花節に鑑札下る時に、チョンガレ節を何節と付けるかと尋ねられた時、小政の兄七種節が宜からう、色々の節がはいつているから、といつた処から一時七色節と付けた事があり、小政といふのは一心亭辰雄君の三味線引で初代文之助の門人です。
私も其鑑札を語光老人から子供の時分に見せられ後年私宅の宝物としてゐたが、大震火災の時、明治二十五年の浪花節番附と共に焼失したのは残念でした。鑑札は青色で当時の二十銭紙幣位で「七色節」とありました。番附は、東の大関春日井文之助、西の大関鼈甲斎虎丸、行司美弘舎東一、勧進元浪花亭駒吉、関脇八木亭清歌、中川末吉、小結雪の家盛寿、寿々木亭米造等でありました。頭取春日井松の助に代つて駒吉師が頭取になる時に、自分の浪花亭を幸として浪花節と改めたのですが、駒吉師は、初めて関東へ下った時、浪花家辰治と名乗ってゐたのですが、それは名古屋の浪花家辰の助のいふ名人の弟子であつたからで、後浪花亭駒吉となり(一名鼻黒駒といひ、鼻に黒い大きなホクロかアザがあつた為めの渾名)自分としては、うかれぶしを改題するに、仲間にちよいと工合が悪いので、種々手を廻して知事某氏に願つて、上方からはやり初めたからからとか、浪の潮の如くさしたり引いたりする処が節だとかいつて、浪花節と付けて貰つたと言つたが、実は自分の亭号をあらはしたものであらうと思ひます以上は駒吉師と、語光老人とが、浅草のちんや横丁の新恵比寿亭の楽屋で話してゐたのを、私が十六の時に、現に聴いてゐたものであります。
後年大阪にいたが、大阪親友派の総会の際、宮川松安が「大阪の浪花から浪花節だ」と意見したために腹を立て、この説を論じて松安を言い負かせた、という。
16歳で祖父の斡旋で東京の浪花亭浅造に預けられ、浪花亭小梅と改名する。
この頃より師匠や大師匠の駒吉に従って東京の寄席に出るようになる。親類弟子にあたる石川亭小浜と仲が良く、義兄弟の契りを結んだほどであった。
21歳ころ、三升家一俵の世話になり、「大垣家駒右衛門」と改名。これでしばらく旅に出ていたことがあったという。
23歳の時、浅造の兄弟子にあたる浪花亭峰吉に預けられ、「峰若」と改名。この頃よりめきめきと頭角を示すようになった。
1907年、贔屓の役者・伊井蓉峰から「蓉峰」を拝借し、新富座で「浪華蓉峰」と改名披露――というのが定説なのだが、『東京市内寄席名及び出演者一覧』には出てこない。
その後は、長らく九州を巡業していたらしい。まだ当地にいた雲右衛門と人気を競い合い、雲右衛門に拮抗する程の人気を集めたという。
1910年6月28日~30日、深川座で独演会を決行(歌舞伎122号より)。実はこれが本当の売出しなのではないかと勘繰っていたりする。
1910年9月、大阪へ出かけ松島座に出演。大入を記録する。
襲名後は師匠の峰吉や、木村重勝・重松師弟などと行動を共にし、寄席を掛け持ちするほどの人気を集めた。『四谷怪談』『小笠原騒動』『塩原多助』『太閤記』『宇都宮釣天井』『義士伝』など読み口は広く、品格もあった。
明治末には、レコードを吹き込んでいるそうでメノホンレコードから『四谷怪談』『隅田川乗切り』『背割り五郎』『佐倉宗五郎子別れ』『殿中松の間』『玉葱燈篭』を出している。
その内の一枚、『四谷怪談』は日文研で聞ける。
帰京後は峰吉門下の白眉としてうたわれたそうで、『講談倶楽部』(1917年8月号)掲載の「浪界四十七士」の中で、
三十七 浪花蓉峰
峰吉の門下中では此の人位のものであらう。峰福、峰彦、峰勝等も峰吉の門人であるが、左して花々しい活動を示さぬやうである。但し峰福は山漢気質があると見えて、師匠には断わりもしないで花月樓鷹丸と改めたり、或る時は本家の鳳声に無断で原鳳声と称したりして、地方を巡業してゐたが、後更に桃中軒歌右衛門と改称し、長髪で嚇かし廻つてゐる 夫れも可いが過般(このあひだ)などは、日光附近で「故雲右衛門師の遺言に依り二代目雲右衛門を襲名し」なんかと、飛んでもない詐欺的広告をなして、御客から面の皮をひん剥かれたこともある。しかし蓉峰にはそんな不了見はない。同じ弟子兄弟でも蓉峰は白痴おどかしで客をとらうとはしない。彼れは歌右衛門に比して、人物が正しいのである。
蓉峰は峰若と云つた頃から芸は上手であつた。後髪を長くし蓉峰と改めて、雲右衛門の本城たる九州を巡業し、到處に多大の成功を収めたことがある。夫れは明治四十二年の頃であつた。九州よりの帰途、名古屋の金輝館に出た時の如き、連夜非常な大入を占めて、其の人気當る可からざるものがあつた。
蓉峰の節や声やは、特別に美いと云ふ程ではない。彼れの談話には一種の癖もあるやうに思はれる。けれども彼れには只一ッ節得も云はれぬ美い節調がある。彼の倣ぶことの出来ない独特の聲節がある。彼れの人気はその一点で勝ち得たものである。彼れよりこの独特の長所を除き去れば、夫れは他の真打連と何等選ぶ所はない。彼れの一調子突き込んで顔を赤らめて調と情とを併せ遣る所が今に至る迄耳に残つて忘れられぬ。
と賞賛を受けている。
1920年春、東家楽鴈の一座に入り、九州巡業に出発。モタレ(副座長)として、楽雁をよく助けていたという。
しかし、その旅先で、右の腕を切り落とされてしまった。喧嘩に巻き込まれ、相手に腕を切られたのだという。凄まじい話ではないか。
これはショッキングな案件だったと見えて、『都新聞』に以下のようなゴシップが出ている。
◇浪花亭蓉峰は東家楽雁のモタレで九州へ行った際、福岡附近で喧嘩の中へ這入つた為めに右の腕をスパリと切り落とされた関係上、楽鴈がこれを背負い込んでゐる
治療をして一命はとりとめたようであるが、右手は治らずじまいだったという。手を失くした蓉峰の気持ちはどんなものだっただろうか。
帰京して、落胆している蓉峰に同情した仲間たちは、1920年9月13日、浪華蓉峰右腕斬慰問読み切りを開催。小柳丸、呑風、綾太郎、それに補助として峰吉が出演し、その売り上げを蓉峰に送った。
その後も一枚看板として出演していたというが、如何せん腕がないために所作が出来ない事や観客の冷たい目線が嫌になって一線を退く事を決意したという。
弟弟子の銀三郎に「蓉峰」を譲渡し、自身は「浪花亭大巴」と改名。さらに「北村大巴」と改名している。
これでしばらく舞台に出ていたが、戦争を機に完全に引退してしまった。
戦後も長く生き続け、1961年に80歳で没。谷中の金嶺寺に墓があるという。
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