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被爆からの奇跡の生還・大隅輝子
人 物
大隅 輝子
・本 名 篠崎 キクエ
・生没年 1922年8月23日~1998年
・出身地 大阪府 大阪市
来 歴
大隅輝子は戦前戦後活躍した女流浪曲師。大阪で修業し、若手浪曲師として売り出したが1945年8月の広島原爆投下で被爆。原爆症に苦しみながらも舞台に立ち続け、一枚看板となった。
平成まで生きていたおかげで、経歴は『東西浪曲大名鑑』に掲載されている。
大阪市西淀川の出身。石材商を営む父親の兄妹5人の長女。実父の期市郎は38歳の若さで他界し、母親は子供らを連れて池田家に嫁いだ。
彼女は浪曲に対しては、少女のころから嫌悪感を抱いていたという。が、17歳を迎えた年に、義父の息子に誘われて京山若丸の浪曲を聴いた時に、それまで抱いていた浪曲に対するイメージが変わり、浪曲に興味を示しはじめ、若丸の経営する浪曲学校に入った。幸いに義父も母も浪曲が大好きだったた為に、キクエの浪曲学校入りは大賛成であった。若丸は合三味線を勤めていた広沢光子にキクエを預けた。昭和12年5月5日正式に光子の弟子となった。初舞台は同年11月1日に、大阪玉造の春野館で、芸名を”広沢駒弥”と名乗り、「岡部美濃守」を演じた。年期は3年と決めたが師の熱心な指導で1年6月で、許しが出て修業が終った。
師匠の広沢光子は元々初代広沢駒蔵門下で浪曲を唸っていたが、声の不調や諸事情で三味線方に転じ、その道で一家を成したという人であった。
光子は三味線を弾きながら輝子をしごいた。時には輝子の曲師をしながら指導を続けたというのだからすごい。
「駒弥」という名前も師匠の駒蔵を私淑して取った形であろう。
1939年、17歳の若さで独立し、「女流浪曲・広沢駒弥」として方々を渡り歩いた。当時、戦争が拡大していた事もあり、戦線慰問にも多々赴いたという。
1945年、売り出しの華井新の一座に入り、出方として中国地方を回っていた。
8月、広島市内の部隊を巡演し、6日に帰ろうとした矢先に華井新ともども広島駅近くで被爆。
直撃こそ免れ、軽傷で済んだが、死屍累々の広島の街を目の当たりにする羽目になる。命からがら広島を脱出し、大阪へ戻った。
終戦後間もない1946年に「大隅輝子」と改名して再出発。師匠の広沢光子、大先輩の京山若丸、八洲東郷を一座に入れて「大隅輝子一座」として活躍する事となる。
女流らしい品のある浪曲を得意とし、「源平合戦」「関の弥太っペ」の他、「巌窟王」なども読んだ。
戦後は巡業を中心に活躍。品のある浪曲のおかげもあって、地方では大幹部のような扱いを受けたという。
1953年の番付では「惑星」という不思議な名称で一枚看板。
1957年、知人の紹介で16歳の少女が弟子になる。これが平成まで活躍した葵わかばである。わかばの声調べで余りにも美しい高音を出したのを目の当たりにして「この子はモノになる」と膝を叩いたエピソードが残っている。
わかば(当時は峰ときわ)に対しては礼儀作法から芸まで厳しく仕込み、「美声と美貌に溺れてはいけない」と強く戒めた。芸はすべて口立てで教え、台本を見ることを禁じた程であった。そうした教育の甲斐あって、わかばは20代にして新進気鋭と目されるようになり、大隅輝子の株も上がった。
1963年11月、体調不良に倒れ入院。検査の結果、18年前に浴びた原爆を原因とする原爆症であることが判明。半年ほど入院する事となる。
自らの体力の限界を悟った輝子は、1964年に弟子のわかばの看板披露を行い、全国を回った。これを最後の仕事として引退。
1964年の番付では「惑星」とこれまた登録されている。
大阪市に戻り、飲食店を経営。わかばの出世を楽しみに余生を送ったという。
ただ引退こそしたものの、芸能界から退いたわけではなく、体調が良ければ時折舞台に出て枯淡の芸を聞かせていたようである。
『てんのじ村の芸人さん』をみると、1976年に行われた大阪稲荷祭で高座に上っている様子が確認できる。
晩年は蓮如(仏教)に帰依をしていたらしく、蓮如忌の祭りになると蓮如をたたえる浪曲を余興として演じていたという。『日本美術工芸566号』(1985年11月号)の「絵解きの系譜・日本絵画鑑賞史試論-18-「蓮如さん」と蓮如絵伝」の中に、
蓮如御影吉崎ご下向の第一日目の宿舎となる三井寺南別所等正寺には、三種の蓮如絵伝が伝えられ、報恩講と蓮如様お通りの四月十七日にはたくさんの参詣人が拝見する。ことに四月十七日の夜は、八時説教本山特命布教師、九時本願寺中興上人縁起之上下、十時宝物拝観・絵解説教、つづいて御通夜、と法会の手順が定められており、ここ数年は元吉本興行の大隅輝子さんの蓮如上人御一代記の浪曲も加えられているという。
とあるのが確認できる。
原爆症と闘いながらも、意外な長命を保ち、1998年に亡くなった――と『演芸連合』の告知の中にある。
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